第6話
「その美味さ、サイジョウ級!?」
「オレを、弟子にしてください!!」
「……」
幸平の突然の言葉に、西城はポカンと口を開けたまましばし考え、やがて大声で笑った。
「はっはっは!急に何を言うかと思ったら。おまえさん、ギャグのセンスはねェみてぇだな?」
「本気なんです!オレ……」
「あん……?」
幸平は瞬き一つせず、食いつくように西城に視線を向けた。
困ったようにため息をつき、西城が口を開く。
「弟子って、おまえな。俺の仕事知ってて言ってるんだよな?なんでェ、野球やってたけど実は板前志望でしたってか?」
「いや、そういうわけでもないんだけど……」
「さっぱりわかんねぇ話だな。ま、人をからかいに来たわけじゃぁなさそうだが」
「……ダメですか、やっぱり」
「いや、ダメとかそういう問題じゃなくてだなァ……」
西城が腕を組んで幸平を見つめた。
彼の知っている幸平は、あくまでも野球少年だった。それが、今こうして目の前にいて、弟子入りしたいなどと言っている。
その意味は何だ?
少し話を聞こう、そう思い始めた時、沈黙を破ってその音が聞こえた。
ぐきゅるうぅぅぅぅ……
「ん?」
「う。ここまで来るのに何も食べてなくって……」
しょんぼりと肩を落とす幸平のお腹の音に、西城は頭を抱えた。
「ボウズ、おまえなぁ。あの時もそうだったが、料理人の前で腹鳴らされちゃァ、こちとら食わせないわけにゃいかんだろうが……」
「はぅ、そんなつもりじゃぁ……」
「しょうがねぇな」
西城は親指を立てて、背後の楽運荘を指差した。
「立ち話で腹が減ってちゃ何も話せねぇだろ。とりあえず、上がりな」
楽運荘の調理場の奥には小さな窪んだ空間があり、椅子とテーブルが備え付けられている。西城が仕事中に食事や小休止を取るためのスペースだ。
幸平をとりあえずそこに座らせ、西城は調理場の壁に掛かったフライパンを手に取った。
「何か食いたいもん、あるか?」
「あ、何でもいいです……」
「はあぁ……」
西城はわざとらしく、大きなため息をついた。
幸平が遠慮して言ったのはわかる。しかし料理人としては「何でもいい」と言われるのは、大きく気を削がれるのだ。
西城はフライパンを幸平に向け、うんざりとした口調で言った。
「じゃ、おまえ自分で作りな。ここにあるもんは何でも使っていいから」
「えぇ、オレが!?」
思わず幸平が立ち上がった。当然だ、と西城が続ける。
「俺に弟子入りしたいってんなら、そこそこ料理の基本ぐらいは知ってんだろ?」
「いや、オレは……」
「ほれ」
口ごもる幸平の手に、西城は強引にフライパンを握らせた。
――惨劇の幕開け。
地獄を目撃していたのは鼓だった。
彼が二人を心配して調理場のドアの隙間から顔を覗かせた瞬間、何とも言えないニオイが鼻を突いた。
「ふぐっ……!!」
鼓は思わず涙目になって鼻を押さえ、その場に膝をついた。
――毒ガス!?
まさにこの世のものとも思えない悪臭。辛うじて覗き見えた調理場の中は、どす黒い煙が充満している。
中の二人は無事だろうか。
鼓がよろよろとドアにすがり付き、中の様子を伺う。
『げふっ……ばっか野郎っ!!何焼いたらこんなことになんだよ!げほっ!』
『ご、ごめんなさい〜!オレ、フライパン触るの初めてで……』
『何だとぉ!?げほっ、とにかくっ、早く火を消せっ!』
『はいぃっ!み、水をっ……』
『だあぁっ!!待て、やめろっ!それは油……』
『えっ……』
ごごごぅっ!!
『ぎゃあぁぁぁぁぁぁっ!!』
ばたんっ。
煙の向こうから響き渡る、あまりにも凄まじい悲鳴に耐えかね、鼓は思わず調理場の扉を固く閉じてしまった。
地獄の門は閉じられたのだ。
「……ふぅ♪」
鼓はドアにもたれ掛かり、晴れやかな顔で汗を
「ぬぐってる場合じゃないっすっ!!」
よく考えたら、こんな煙が充満した部屋の中にいたら二人が死んでしまう。鼓は再び地獄の扉を勢い良く開けた。
「ちきしょ、出ていきやがれっ、このクソボウズっ!!」
「だわあぁっ!!」
その瞬間、西城の正拳突きが幸平の胸部に炸裂し――
「ほぇ!?」
――ドアを開けた鼓の顔面めがけて幸平のでっかい尻が吹っ飛んできた。
ぼむんっ!!
次の瞬間には、鼓は幸平の下敷きになって廊下に転がっていた。
「……こ、こういうのは健兄ぃの役割のはずっす……」
「西城さぁ〜〜んっ……」
苦しげに蠢く鼓を尻の下に踏んづけながら、幸平がボロボロと涙をこぼしていた。
黒煙を払いながら、西城が近付いてくる。
「ろくに料理したこともない坊主が弟子入りもクソもあるか!
いいか?余計なことを言うが、おまえは野球やってた方が絶対いい。貴重な人生と才能、ムダにすんじゃねえ!」
一方的にまくし立てる西城を前に、幸平は悔しさに拳を握りしめた。
西城の言葉よりも、何も言い返せない自分に腹が立った。
言葉で立ち向かえない幸平は、西城にただ強い視線をぶつけるしかなかった。
涙をこぼしながらも、決して負けない――退かない。その気持ちだけを瞳に込めて。
西城の言葉に疑問を感じたのは鼓だ。
これでは、『おまえは野球しか能がないのだから、それ以外何もするな』と言っているのと同じではないか。
それを決めるのは、西城ではないはずなのに。
「西城さん、あの……」
幸平の下敷きになりながら、鼓が声を絞り出した。
「おまえは何も言うな」
「え……」
西城は鼓の言わんとする言葉を知っているかのように遮った。
確かに怒気ははらんでいるが、西城の目はいつもと変わらずに澄んでいる。
――そうか、と、鼓は確信した。西城の真意は別にある。
西城はただ何も言わずに、二人をその場に残して廊下の向こうに歩いて行った。
「……?」
鼓の額に、大粒の水滴が当たった。
幸平だ。気付いているのかいないのか、鼓を背中から押し潰しながらの状態で彼は涙を流していた。
「……ん〜。泣くんだったら、もっといい場所があるっすよ〜」
「いい場所……?」
「っていうか、まずはどいてほしいっすけど……」
楽運荘の誇る乳白色の温泉は、怪我や身体の不調に絶大な効果があると評判だった。
大昔から湯治場として利用されていた名湯である。
その大露天風呂に足を踏み入れ、鼓が笑いながら言った。
「うちのお風呂、ちょっとした言い伝えがあるんっすよ♪」
「……」
先ほどの一件が相当堪えたのか、幸平はただ何も言わずに鼓の小さな背中を見つめていた。
ゆっくりと掛け湯をしながら、鼓は幸平に語りかけた。
「……このお湯で涙を洗い流せば、そのあと絶対楽しいことがやって来るんっす。だからここは楽運荘っていうんっすよ」
……というのは、鼓の単なる思い付きだ。
ただし、今の幸平には気休めでもそう言っておく必要があるように思えた。
鼓が温泉の縁に座り、ちゃぷちゃぷと湯に足を浸ける。掛け湯を済ませた幸平がその横に並び、同じように足を泳がせた。
緩やかな空気に、しばしの沈黙。
鼓がちらりと幸平の顔を覗く。
その虚ろな瞳はただぼんやりと、足元に広がる水面に映った自分の顔を眺めていた。
やがて鼓が、困ったように笑った。
「西城さんに怒られたことなら、気にしないでくださいっす。怖そうに見えても、優しい人っすから」
「うん。知ってます……」
「へぇ……?」
「去年の夏にあの人に出会ってから、ずっと忘れられなかったんです、オレ」
「そんなに美味しかったっすか?西城さんのおにぎり♪」
わざと冗談っぽく、鼓が尋ねた。
それには答えず、幸平はためらいがちに言った。
「……似てたから。いなくなった父さんに」
「え……?」
鼓は幸平の横顔を覗き込んだ。
「松阪くんのお父さんって……」
「野球の選手でした。でも、オレが小さい頃にいなくなっちゃって。顔とかハッキリ覚えてなくて、雰囲気ぐらいしかわかんないけど……」
「もしかして、お父さんのことを知りたくて野球を?」
「うん……少しでも、父さんに近づけたらって」
やっぱりそうか、と鼓は思った。
同じなのだ、自分と。
幼い頃に父を亡くし、その影を追って腹鼓を叩いていた時期があったから。
だとすれば――
「……野球やってても、結局わかんなかったんじゃないっすか?」
「え……?」
驚いた表情で、幸平は鼓と目を合わせた。
「わかるはずがないんっすよねぇ。父ちゃんとおんなじことができるとしても、結局心まで同じにはなれないから」
そう。自分は自分にしかなれないから。
他人の真似をして生きることはできないから。
「松阪くん、たぶん……西城さんはお父さんに似てるだけの、赤の他人っすよ」
「はい……」
「それに、おいらも西城さんの言うことがもっともだとも思うっす。松阪くんが野球で活躍すれば、喜ぶ人はすごく多いと思うっすよ」
「……」
「……どうする?選択肢は二つだけっすねぇ」
「オレ……」
幸平は押し黙り、困惑した。『最良の道』は一つしかない。
それを嫌がり、自分の選ぼうとした道のなんと険しいことか。
これが現実。
「オレ、やっぱり……」
「……女将さん、ちとお話が……」
「なぁに?改まって」
西城に神妙な面持ちで声をかけられ、楽運荘の受付に立っていた女将の猫柳マサ子が首をかしげた。
桜色の着物を着こなした、温和な顔立ちの白いネコ族の婦人である。
「……一人、住み込みのアルバイトを雇いたいと言ったら、どう思います?」
「アルバイト?調理場の?」
「ええ」
「あなたが必要だと言うなら検討するけど、住み込みというのは……寮の部屋に空きはないのよ?」
「ふむぅ……」
「なぜ急にそんなことを?」
「オレの所で働きたいと言う小僧がいやして。ただそいつ……料理のリの字も知らないような奴なんですがね」
「そんな子を雇うの?人手が足りないと言うなら、きちんと募集をかけますよ?」
「いや、手が足りないわけじゃないんでさ。ただ、その……」
落ち着かない様子の西城に、女将は何かを察して苦笑した。
「放っておけないのね?」
「……帰るようには言いましたがね。どう考えても、ここで働かせるのは奴のためにならねぇ」
、
「その子、歳はいくつなの?」
「18か19……ほら、去年ここに泊まった野球部の坊主でさぁ」
「それはまた……面白い縁があるものねぇ」
「まぁ、奴が退かなかった時は俺がどうにか面倒見るということで。ここは一つお願いできんかと」
「あなたに任せるわ。話が決まったら、ここに連れてきてくださいね」
「恩に着ます……」
「縁は大事にするものよ」
深々と頭を下げる西城に、女将は優しく微笑んだ。
彼女は知っていた。
時に人は、誰かの人生の分かれ道に立ち会わなければならないことを。
――18歳なら、鼓と同い年ね。
――鳴樹さん。
――あの雪の朝、私がもっと強くあなたを引き止めていれば、鼓は今ここにはいなかったんでしょうね。
――あの子はもっと幸せになれたのかしら。
――いいえ。それを決めるのは、あの子自身ね。
女将はふと窓の外に広がる、透き通った青空に目を細めた。
「そろそろ、季節の変わり目ね」
「縁、ねぇ」
重い足取りで調理場に戻りながら、西城は女将の言葉を頭の中で繰り返していた。
自分でも、なぜあんなことを頼みに行ったのかわからない。
あの少年の将来のためにも、きちんと断って帰すべきなのだ。
だが――
それで納得して帰ることはないだろうと、あの赤い熱を宿した瞳からは強い意志が感じられた。
「ん……?」
西城はふと顔を上げた。調理場の前に鼓が立っているのだ。
「おう、どした?……さっきの坊主は?」
「あ、もうちょっと待っててもらえないっすか?松阪くん、いま中でおにぎり握ってるっす」
「おにぎりぃ?」
「やっぱりこのまま帰りたくない、もう一度チャンスが欲しいって。西城さんをビックリさせてやるんだって言ってたっすよ」
「あんにゃろう。気持ちだけは一人前じゃねぇか……」
鼻をこする西城に、鼓がくすっと笑った。
「なんだかんだで、西城さんも結構気に入ってんじゃないっすか?」
「気に入ったっつーかだなぁ……おみくじ引いて凶が出たからって、箱に戻すわけにもいかんだろうが」
「変な例えっすねぇ」
「何にせよ、あいつ次第だな」
その時、調理場のドアが開き、幸平がそっと顔を出した。
「あ……」
扉の前で待ち構えていた西城と目が合い、うろたえた表情を見せる。
「おう、どうした?」
「あの……オレ……やっぱりこのまま帰りたくなくて。だから、その……」
「四の五の言うな、鼓から話は聞いた。何か作ったんだろ?」
「は、はい……」
「見せてみな」
頷く幸平の横をすり抜け、西城は調理場の中へ入って行った。
「ほう……」
西城の目に入ったのは、調理台の上に置かれた三つのおにぎり。
三角形ですらなく、かなり歪んだ球形で、おまけにやたらとでかい。
「……ひでえもんだな。握りかたにムラがあるから、うまくまとまってねぇ。海苔も破れちまってるじゃねえか」
「……」
しゅんと耳を下げる幸平に、西城はニッと笑ってみせた。
「まぁ、味は食ってみなきゃわかんねぇな」
幸平と鼓がじっと見守る前で、西城は大きな口を開けておにぎりにかぶりついた。
後に、激しく後悔と絶望に苛まれることも知らずに。
西城がおにぎりをもぐもぐと噛み締めた、その瞬間に悲劇は起きた。
「……ふごはっっ!!!」
突然、西城の頭に雷が落ちたような衝撃が走った。
漫画みたいに「ドギャアァァァァンッ!!」などという効果音まで付いている。
西城は白眼をむき、ばったりとその場に倒れ込んでしまった。
「さ、西城さんっ!?」
西城のあまりにも漫画的な反応に涙目になりながら、幸平が慌てて駆け寄った。
「西城さんっ、死んじゃヤだ……西城さんんっ!!」
幸平に背中を揺さぶられ、西城の指がピクリと動く。まだ生きてる。
幸平が安堵のため息をついた、その時――
「……こんの、超・バカタレ黒毛和牛があぁぁぁぁぁっ!!」
「はぐうぁっ!!」
一気に覚醒した西城のアッパーカットが、幸平をまたしても吹き飛ばす。
天高く舞い上がった幸平の短い二本の角が、奇跡的な角度とインパクトで天井に突き刺さり、彼は宙ぶらりんの格好となってしまった。
そんな幸平の真下から、西城の怒声が飛ぶ。
「てめえっ!このおにぎり、何入れやがった!!」
「え……えっと……何か華やかな具を入れようと思ってプチトマトを……」
「華やかもクソもあるかっ!せっかくの米がベチャベチャじゃねえか!!」
温かいご飯と、水気タップリのプチトマトの不協和音と書いてハーモニーと読む。
「う〜わ〜……」
鼓がとてもまずそうな顔で、残り二つのおにぎりをそっと割ってみる。
「こっちは梅干し……じゃなくてドライフルーツのブドウ?もう一つは……ん?何これ、ピーナッツクリームとツナ……!?」
鼓は頭を抱えた。
「た、確かにこれはビックリっすよ……」
「てへへーっ」
「いや、照れるとこじゃないっすから……これ、味見したんすか?」
「はいっ♪美味しかったですよ!」
「美味しい……!?これがっすか……!?」
さすがにこれじゃダメだろうなぁ、と思った鼓の意に反して、西城は思わぬ言葉をかけた。
「まったく……こいつを仕込むのは骨が折れそうだな……」
「え……?」
宙ぶらりんのまま、幸平はきょとんと瞬きを繰り返した。
西城の言葉の意味を理解するより早く、幸平の両脇に西城の手が伸びる。
「ま、仕方ねぇさ。大凶のおみくじだな、こいつは……」
西城は幸平の身体を抱え、天井から引っこ抜く。
幸平のひづめが床に触れ、彼は西城から一歩後退りした。
まっすぐに、西城の瞳を見つめる。
トクン、と鳴る胸を押さえ、彼は大きな瞳を潤ませて言葉を絞り出した。
「ありがとう……ございますっ……!」
深く礼をする彼の頭を、西城の大きな手がポンと叩いた。
ぽろぽろと大きな涙をこぼす幸平の姿に、気恥ずかしそうに微笑みながら、鼓は温泉での会話を振り返った。
『やっぱりオレ、西城さんの近くに居たいです……』
『……お父さんに似てるからってだけでっすか?』
『それもあると思うけど、でも……わかんないんです、もうずっと前から胸がモヤモヤしてて……』
『……ああ、そういうことっすか……♪』
『へ?』
『たぶん、それって……』
――今はよくわかんないのかもしれないけど……
――人生とか才能とか、そんな理屈すら越えてしまう気持ちを、おいらはこの時、確かに見たっす。
――他人のを見て初めて気付いたんっすけど……
――こんなにも甘酸っぱいんっすねぇ。
『……好きなんっすね』