第6.5話
「その夜の気分はモーッ!サイ高!!」


 楽運荘から徒歩5分ほどの場所にある従業員寮。二階建ての古い木造アパートを改修して造られたその建物の一階に、西城哲也の部屋はある。
 湿気が多く、蒸し暑い夜だ。
 西城は松阪幸平を部屋の前に案内すると、扉のカギを開け、彼の背中を叩いた。

「今日からここがおまえの部屋ってことになるな」

「は、はい……」

 結局、住む場所を用意できない幸平は西城の部屋で共に暮らすこととなった。
 部屋にどかどかと上がっていく西城に、どこかぎこちない様子で幸平が続く。

 押し入れと台所付き、六畳一間。風呂はないが問題はない。空いた時間に宿の温泉に自由に入れる特権がある。
 目立った家具といえばテレビとテーブル、本棚が置いてあるだけの簡素な部屋だった。
 幸平はまじまじと部屋を見渡していた。

「狭苦しい部屋で済まんなぁ」

 西城は台所の冷蔵庫からペットボトルの麦茶を出し、コップに注ぎながら情けなく笑った。

「いえ、なんかこういう部屋の方が落ち着きます」

「そうか?ま、俺は普段ここよりも旅館に居ることの方が多いから、ホントにただ寝るだけの場所なんだけどよ」

 その言葉を聞きながら、本棚の上に置かれた一枚の写真立てが幸平の目に止まった。
 今よりも少し若い西城と、優しそうなシカ族の女性、そして少年野球のユニフォームを着た、小学生ぐらいのサイ族の男の子の姿が写っている。

「……気になるか?」

 幸平が写真を眺めていると、西城が机に麦茶を置きながら言った。

「この人たち、西城さんの……?」

「ああ、嫁さんと息子だ。つっても、十年以上前に別れたんだが」

 それを聞き、幸平は気まずそうに机の前に腰を下ろした。

「聞いちゃまずいですよね、ごめんなさい……」

「おいおい」

 西城は軽く笑った。

「まずいもんならこんな風にさらけ出しちゃいねえよ。まして、今日から一緒に暮らすんだ。お互い、隠し事はナシでいこうや」

 西城は写真立てを手に取ると、目の前の幸平の顔と見比べた。

「今ごろはおまえと同じくらいの歳だな。へっ、あんま似てねぇな」

「あの……どうして……」

「ま、仲が悪かったわけじゃねぇんだ。ただ、俺は嫁さんに一つ隠し事をしてた。
それがバレちまった時、もうそれまで通りの生活はできなくなってな。嫁さんは気にしないと言ってくれたが……俺が耐えられなかった。
一緒にはいられなかった……って、おい」

 そこまでしんみりと語ったところで、西城は幸平を見てため息混じりに笑った。

「……こんにゃろう。自分から聞いといて……」

 慣れない場所に飛び出してきて、疲れが溜まっていたのだろう。幸平はいつの間にか座ったままウトウトと眠りこけてしまっていた。
 やれやれ、と西城は腰を上げると、押し入れから枕を取り出して幸平の傍らに置いた。

「……ま、今日はゆっくり休みなっと……」

 幸平の肩を支えながら、ゆっくりと身体を床に倒す。枕の上に頭を置くと、幸平はすやすやと寝息を立て始めた。
 西城は少し困ったように鼻先の角を人差し指で掻くと、おもむろに幸平の横に寝転んだ。
 両手を頭の後ろで組み、ちらりと横目で幸平を見つめる。

「今になって19のボウズのお守りとは。子育て放り出したツケか……?」

 自嘲気味に呟く西城の隣で、幸平がかすかに唇を動かした。

「……さん……」

「ん……?」

「父……さん……」

「……おまえ……」

 西城は思わず、幸平の肩に左手を置いていた。
 恐らく無意識だろう、幸平がそこに柔らかい手を重ねてきた。
 西城の手を握った幸平から、安堵のような吐息が漏れる。

 西城は固唾を飲み、彼の全身を隅々まで凝視した。
 薄手の白いシャツと、ハーフパンツ一枚という軽装。
 まだあどけなさの残る顔と不釣り合いに見えるほど、よく鍛えられた身体。
 ぽっこりと張り出しているお腹も、決して脂肪が詰まっているわけではない。
 全身がしなやかな筋肉による柔らかな流線形を描き、どこか、少年期特有の色気すら感じてしまう。
 西城はその寝顔に目を細めた。

「う……」

 西城は、思わず自らの股間に手を伸ばしていた。ジーパンの前が大きく張り詰めていたのだ。
 と、同時に、西城の視線は無意識に幸平の股間に釘付けになっていた。
 胸の奥から溢れ出して来る衝動を、彼は必死で押さえ込もうとした。

――駄目だ。手は出すな。ここで手を出したら、あの時の二の舞になっちまう。

 十数年前の出来事が頭をよぎる。
 あの時、西城は自宅に遊びに来ていた後輩に酔った勢いで手を出した。
 自室にこもってのその行為を、たまたま妻が見てしまったのだ。
 妻は何も言及することはなかったが、西城はもはや妻子に対してそれまで通り接することはできなくなってしまった。
 お互いに殻を作ってしまうような関係に耐えきれず、西城は妻子から離れる道を選んだ。

 西城が幸平を受け入れた、もう一つの理由。
 それはひどくシンプルな、彼が抑え込んでいたはずの欲望によるものだった。


――絶対に手を出すな。また家族を失うつもりか?

『家族?綺麗事を言うなよ。好みのガキがなついてくるから、拾ってやっただけだろうが』

――違う。このボウズはこんなに真っ直ぐに俺を慕ってくれてる。それを裏切るようなことはできねえ。

『裏切る。結構なことじゃねぇか。ガキに現実を教えてやるのも大人の役目ってもんだ』

――そんなこと、思っちゃいねぇ。

『思ってるじゃねぇか。さっき言ったろ?隠し事はナシだと。ほれ、本当の俺を見せてやれよ』

――馬鹿を言え。初めてうちに来たような奴を……

『関係ねえよ。どうせいつかは食っちまう気でいたくせに。昔のこともそうだ。そうやって俺は……』

――俺は、また失っちまうんだ……


 彼は葛藤に負けた。その後は簡単だった。
 西城の目に、ほの暗い光が宿る。呼吸が荒くなり、鼓動が急速に速まっていく。
 西城は幸平の前髪を上げると、その額にそっとくちづけた。

「ん……」

 幸平が小さな呻き声をあげ、西城の手を握る力が弱まった。
 西城は、幸平がまだ眠っていることを確認すると、ゆっくりと舌を額から下に――幸平の唇へと這わせていく。
 幸平に捕まれていない右手を彼の頭の後ろに回し、わずかに持ち上げてやる。
 西城はそのまま、かすかに開いた幸平の唇の隙間に舌を滑り込ませた。そのまま唇を押し付け、舌と舌を絡ませ合う。
 そのとろけるような舌の味をじっくりと堪能した西城は、唇をゆっくりと離した。

「うっ……ん……」

 口元に違和感を感じたのか、幸平が微かに苦そうに顔をしかめる。
 それにも構わず、西城は左手を掴んでいる幸平の手をほどき、彼のシャツを胸の上までめくり上げてその丸々とした腹の上に手を置く。

「はぁ……」

 荒い息を立て、幸平の腹を揉みしだいていく。自然と手に力がこもる。
 大きな腹とはいえ、少し硬めで、思ったほど指先が沈まないのだ。
 西城の手は幸平の腹を一通り撫で回した後、幸平のハーフパンツの中央に置かれた。
 ハーフパンツ越しに少し指先を動かしてやると、中に納まっている幸平のそれは微かにピクリと反応した。
 もう抑えは効かない。幸平のハーフパンツを脱がそうと、西城が指を引っ掛けた。
 その時だった。

「……西城、さん……?」

「っ!!」

 頭上から聞こえたその声に、虚ろだった西城の瞳に正気が戻っていく。
 考えるよりも先に、彼は幸平の腹から手を離していた。
 顔を上げると、上半身を上げた幸平はねばつきの残る唇を、手でぐしぐしと拭っていた。

「ぼ……ボウズっ……」

「何、やってんの……?」

 まだ少し寝ぼけているらしい。幸平は抵抗する素振りもなく、ただ呆然と西城を見つめていた。

――どうせ今夜限りだ。

 ヤケクソ、という言葉が傍目から見たら相応しいのかもしれない。
 だがこの時西城は、恐ろしく冷静な思考で次の行動に移っていた。

「ボウズ」

「え?」

「俺のことは嫌ってくれ」

「何それ、どういう――!?」

 返事を待たず、西城は幸平を抱き起こし、その身体を部屋の壁に強く押し付けた。
 背中に走る鈍い衝撃に、幸平はようやく自分の置かれた状況を理解し始めた。

「西城さん!?」

「悪いな」

「んッ……!」

 幸平の口をキスで塞ぐ。
 抗うこともできず、幸平は口を塞がれたままその場に尻餅をついた。
 数十秒に渡って西城の舌にねっとりと口内を責められ続け、幸平は糸の切れた人形のように脱力した。
 西城は唇を離し、放心した幸平の頭を撫でてやる。
 彼がその場から逃れることを考え付かないうちに西城は、おもむろに冷蔵庫に閉まってあった何かのドリンク剤を取り出した。
 西城は無造作にキャップを開けると、幸平の口元にその小さな瓶を突き出した。

「飲みな」

「や、やだ……」

「いいから飲め。ただの栄養ドリンクだ」

 ウソだ、と幸平は直感したが、激しく動揺している彼には抗う術はなかった。
 西城の手が幸平のアゴを押し上げ、口を開く。甘さと苦さが混じった独特の味の液体が、強引に流し込まれていく。
 幸平の喉が脈打ち、瓶が空になったことを確認すると、西城は瓶を放り投げて冷たい笑みを浮かべた。

「自分用に買っといたんだが、さほど使う機会もなくてな。媚薬って知ってるか?」

――びやく?

 聞きなれない言葉に、幸平は首を小さく横に振った。
 西城はフッと笑うと、おもむろにシャツとジーパンを脱ぎ始めた。
 隆々とした筋肉による、がっしりとした太い腕、分厚い胸板が露わになる。
 更に、彼は窮屈そうに張り出したトランクスも脱ぎ捨てた。
 幸平の眼前に、西城の巨根が突き出される。先ほどからの興奮のためか、勃起したその先端はすでに先走りでヌルヌルと光っていた。
 幸平にとっては、目を背けたくなるような光景のはずだった。それにも関わらず、彼の目はその肉棒を凝視して逃れられなかった。

「さ、西城、さん……」

 腹の辺りが熱い。頭がボーっとしてくる。無意識のうちに幸平は、自分の股間に手を置き、ぎゅっと握りしめていた。
 その姿に、西城が満足そうに告げる。

「薬が効いてきたみてぇだな」

「くすり……?」

 西城は首をかしげる幸平の胸元に手を伸ばすと、乱暴な手つきでシャツを脱がせた。
 汗が滲む幸平のシャツを投げ捨てると、今度は手を止めることなく、一気にハーフパンツごとトランクスをずり下ろした。

「や、やめ……!!」

 幸平は愕然とした。西城の前に向けられた自分の性器も、彼のそれと同じように固く、大きく充血していたのだ。

「思った通り、ボウズにしちゃ立派なもんだな」

「み、見ないで……」

「そうはいくかよ」

 西城は幸平の性器をしばし手で弄んだ後、大きな口でそれを咥え込んだ。

「はぅっ……!!」

 思わず幸平が悲鳴を上げた。
 西城の舌が、幸平の肉棒を入念に舐め回す。幸平は西城の頭を引き剥がそうとしたが、西城の舌はより強く亀頭を責め倒してくる。

「んっ……あぁっ……!」

 生まれて初めて味わう、全身を駆け巡るとろけるような快感に、幸平は意識を繋ぎとめておくのが精一杯だった。
 手の平に爪が食い込むほど拳を強く握り、涙をにじませながらその快感に押し流されそうな自我を保つ。
 その苦悶の表情をちらりと見て、西城は幸平の性器から口を離した。
 快感が途切れ、困惑した表情で脱力する幸平に西城が言った。

「どうだ、気持ちいいだろ……」

「う……」

 幸平は力なく頷いた。だが、幸平の手は自分の性器をしごこうと股間に伸びようとしていた。
 早くイッてしまいたい。これ以上は耐えられなかった。
 彼の指先が性器に触れようとしたその時、西城はその腕を掴み上げた。

「おいおい、自分の手でイッちまおうなんてこと、すんじゃねえよ」

「だ、だって……」

「どうする?こんなにカタくしちまってよ。苦しいだろ?」

 西城の指が、幸平の亀頭をすっと撫でて先走りの半透明な液体をすくい取る。
 指先についたその液体を舐め取り、西城が微笑んだ。

「さあ、どうする?」

「い……」

「うん?」

「イかせて……ください……」

「さて、どうするかなあ……」

「お願いしますっ……!」

「ふん。じゃ、仕上げといくか」

 苦しそうに懇願する幸平に満足気に笑い、西城はもう一度幸平の性器を口に含んだ。
 先ほどよりも優しく、特に亀頭周辺を念入りに舌で責めてやる。
 幸平の硬かった性器が、より強く充血してくるのがわかる。
 幸平の荒い息遣いと、クチュクチュという音。これだけが響く室内で、不意に幸平の短い喘ぎ声が漏れた。

「んぁっ……!い……イクっ……!!」

 その声にも動じることなく、西城は幸平の性器をしゃぶり続ける。

「は、離して!」

――離すかよ。

「ダメだっ……!」

 幸平の身体がビクンと震えたかと思うと、彼の性器から大量の白濁した液体が噴出した。
 あふれ出るその精液を、西城が飲み干していく。
 およそ8回に渡る射精の後、何も出なくなったことを確認すると西城は名残惜しそうにゆっくりと口を離した。


「うっ……うぅっ……」

 しばらくして聞こえて来たのは幸平のすすり泣く声だった。無理もない。
 全裸のままうずくまる幸平と目を合わせられるはずもなく、西城は呟いた。

「終わりだ」

 西城はタンスからバスタオルを取り出すと、幸平にかぶせてやった。
 そのまま、背を向けてあぐらをかく。
 いつの間にか西城の性器は、萎えて下を向いていた。
 幸平をイかせることができた、ただそれだけは満足だったはずだ。だが西城の心には、ポッカリと空虚な穴が空いてしまっていたことに、彼自身が今になって気づいた。

――終わりだ。俺は、また裏切った。

「……西城さん……」

 背後から、幸平のか細い声が聞こえる。

「悪かったな、こんな最低野郎でよ」

「……これが西城さんの言う、隠し事ですか……」

「そうだよ」

「なんで!!」

 大粒の涙を浮かべながら、幸平は西城を睨み付けた。
 立ち上がり、背にかかっていたバスタオルを払いのけると、西城の肩を掴んで正面から向き合わせる。
 涙に潤む幸平の視線が痛々しく、西城は目を合わせようとしなかった。

「……すまねぇ」

「ひどいよぉっ……!」

「っ!?」

 涙で顔をくしゃくしゃにしながら、幸平は西城の胸に飛び込んでいた。
 その意外な行動に、思わずのけ反った西城が幸平に押し倒された格好になる。

「おい、ボウズ……」

 溢れ出す涙を拭おうともせず、幸平は西城の胸に強く鼻先を押し付けて、子供のようにわめいていた。

「オレ……オレはっ……!」

 幸平が、西城に対して抱いていた『父親』のイメージ。それが今、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
 そうなってしまえば、父親の影を追って西城に会いに来た幸平がここにいる理由もなくなる。

――父親ではない。目の前にいるのは、一人の男に過ぎなかった。

――だが。

――そうだとしても。

 幸平は、西城の肩に強くすがり付いていた。自分を避けずに、むしろぶつかってくる幸平に、西城はひどく戸惑った。

「おまえ……俺にあんなことされて、なんで……」

「だって、だってぇ……!」


――『好きなんっすね』――


 温泉で鼓にそう言われた時にはピンとこなかった。
 だが、西城から『父親』のイメージを取り払った時。今、胸に強く残っている気持ちは、紛れもなく。

「俺が、イヤじゃねえのか?」

「イヤに決まってるよ。急にあんなことされたって……!」

 そう叫びながらも、その手はより強く西城の肩を掴んでいた。
 父親のように尊敬していた気持ちと、生まれて初めて感じた純粋な『好きだ』という気持ち。
 その狭間で混乱を重ねる幸平の姿があまりにも弱々しく、やがて西城は絞り出すように告げた。

「……おまえ、やっぱ帰った方がいい」

「……!!」

 突然告げられたその言葉に、幸平はビクリと肩をすくませた。

「今のでよくわかった。俺は本当に情けねぇ男だ。おまえがここに居ても、たぶん俺はまた傷つけちまう……」

 幸平に対する申し訳なさと、簡単に性欲に屈してしまったことに対する自己嫌悪。
 西城は、困惑しながらも幸平を突き放そうとした。しかし。

「勝手なこと言わないでよ!!」

 幸平は自分の肩を押そうとした西城の手を、強く払いのけて叫んだ。

「何だよそれ。ほんの一夜しのぎにオレを連れ込んで、勝手に嫌われたとか思い込んで今度は帰れ!?
ふざけないでよ。オレの気持ちはどうなるのさっ!!」

「な……」

「オレ、こんなことがあったぐらいで西城さんのことを嫌いにならなきゃいけないワケ?冗談じゃないよ」

 昼間、自分になついていた時とは打って変わっての荒々しい口調だった。

「確かにイヤだと思ったし、びっくりしたよ。でもそんなの当たり前じゃん、一緒にいるんだから。
お互いのイヤな所も見えてくるに決まってるでしょ……!?」

 勢いに圧倒され、閉口する西城に、幸平は鼻先が触れそうなほどに顔を近づけ、叫んだ。

「でもオレは、こんな風に気持ちを勝手に解釈されて、勝手に気を遣われて遠避けられるのは絶対やだ!!」

「だ、だが……」

「だが、じゃない。何度も言わない。オレは西城さんとずっと一緒にいたいって言ってんだよぉっ!!」

 幸平のありったけの言葉が、西城の胸に突き刺さる。

「幸平……」

 力が抜けたように、幸平は再び西城の胸に崩れた。

「……オレだって好きなんだから。だからそんな、投げやりなこと、しないでよ……」

「俺が、好き……?」

「好きだよっ!!」

 その強く厳しい言葉に、西城は初めて幸平と目を合わせた。少年の瞳に曇りはなかった。
 西城は大きく目を見開いた。


――世界の見え方が変わる瞬間って、こういう時なんだなぁ。

――自分の半分も生きていないこのボウズに言われて、やっと気付いた。

――相手を傷つけたと思い込んで、自分から身を引くことで、俺は今まで自分を可愛がっていたんだと。

――そうすりゃ、大切な人をこれ以上傷つけることはないと、そう思っていた。

――だが違った。傷つけても良かったんだ。

――傷つけて、謝って、泣いて……笑って。それが人と一緒に生きるってことなのに。

――俺は、ただ面倒臭がっていただけだった。

――もう一度。俺は変われるのだろうか――


「う……?」

 幸平は、背中に強い力を感じてゆっくりと目を開いた。
 西城の太く大きな腕が、小刻みに震えながら幸平の身体を強く包んでいた。

「幸平、正直に言うぞ」

「……うん」

「俺がおまえと一緒に暮らそうと思ったのは、ただの善意じゃねえ。さっきおまえにしちまったようなことを、俺はたぶん望んでたんだと思う」

「……」

「だが、その俺から逃げずに、おまえはぶつかってきてくれた。俺は……そんなおまえのことを好きだと思った」

 その言葉に、幸平はゆっくりと西城の胸から顔を上げた。
 顔を真っ赤にしながら、精一杯の言葉をつむいでいる西城に、幸平は柔らかく微笑んだ。

「お、おまえがイヤなら、俺は……今度は絶対に我慢する。だから、もう少しだけ俺の所に――」

「……おやっさん」

「!?」

 幸平が話をさえぎって不意に言った言葉に、西城がきょとんと目を丸くする。

「おやっさん、って、俺のことか?」

「うん、うまい呼び方思いつかなくて。変かな?」

「いや、悪かねぇが、なんだよ急に」

「おやっさんがちゃんと最初っから話してくれてたら、オレもたぶんあんなに嫌がらなかったかもね」

「こ、幸平?」

「ちゃんと、言いたいこと言っていこうよ」

 目の端に滲ませた涙を手で拭い、幸平は仔牛らしい温厚な笑顔を見せた。

「おやっさんが、好きです」

 幸平は顔を上げると、動揺する西城とそっと唇を交わした。
 西城の目に映った幸平の姿は、さっきよりもずっとずっと、愛おしいものに変わって見えた。

「俺も……好きだな。大好きだ」

 この慌しくも暖かい一日。二人の物語は始まった。


→第7話『くらえパンチ!暗いパンダ!?』

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