たぬきのしっぽ2
『おいらたちの夜』
「できたぁ〜!」
パソコンのキーを叩き終えた部長が、満足げにイスから立ち上がった。
ここ数日、ずっと没頭していたことだった。
時刻は深夜1時を過ぎていた。
眠い目をこする。
「へへ…最後の仕上げっと!」
部長はせっせとマウスを動かし、できあがったそれをプリンタで出力し始めた。
夏の高校演劇コンクールに向けての創作劇の脚本が、いま仕上がったのだ。
厳密には完成したわけではなく、実際に演じてみて修正を加えていくわけだが。
「ふ〜…」
デスクトップの横に置いた紙パックのミルクティーを飲みながら、イスの背もたれに寄り掛かって天井を仰ぐ。
蒸し暑い夜で、最近の部長は夜に着るのは薄手の浴衣だった。
胸元からお腹にかけての生地を大雑把に開け、うちわでパタパタと風を送る。
ふと、数日前の猪狩先生との出来事が頭をよぎった。
脚本作りに打ち込むことで、考えないようにしていたのだが。
物語を考えるのに酷使していた頭が急速に落ち着き、色々なことが思い起こされる。
「…なんで、おいらなんか…」
猪狩もカオルも、自分のことを欲していた。
男に好かれることに関しては、特に違和感を覚えなかった。
リュウとコウのベタベタカップルを近くで見ているためか、それとも自分にもその資質があるためか。
部長自身、よくわかっていなかった。
問題はそこじゃなかった。
カオルが、本当に自分のことを好きなのか。
だとすれば、どうすればいい?
あれ以来部長は、カオルのことを避けていた。この日の放課後も、ラーメンを食べに行こうと誘ってきたカオルに、脚本作りを理由に先に帰ってしまった。
カオルと離れることを望んでいるわけじゃない。
でもおいらはミナちゃんが好きで、カオルはそれを応援してくれてた。そのことを単純な図式としてしか考えてなかった。
あいつの性格を一番知ってるはずの、おいらが。
きっとカオルは、自分の気持ちを伝えることがおいらを傷つけることになると思って…
『うちの部長に何すんねん!!』
チンピラにからまれた時の、あの言葉が本音なのだろう。
「うちの…部長か…」
プリンターが、印刷していた原稿の最後の一枚を吐き出した。
虚ろな目のまま、原稿をまとめてトンと整える。
「カオルぅ…」
部長はミルクティーのパックを潰してごみ箱に投げ込んだ。
「……」
パソコンの作動音だけが、静かな部屋に響く。
気晴らしにホームページを巡ったりしてみるが、余計に頭の中がごちゃごちゃしてくる。
「んぁ〜っ、もう!」
部長はパソコンの電源を落とすと、次の瞬間には家を飛び出していた。
細かいことを考えるのは苦手なのだ。
特に人間関係においては。
考えなしに飛び出した部長だったが、行くアテは決まっていた。
カオルのマンションは、部長の家からは歩いて三十分ほどの距離にあった。
走るのは嫌いなくせに全力で走ったため、部長は肩で息をしていた。
額の汗をぬぐい、苦しそうに頭を上げる。カオルの部屋は八階建てのマンションの二階部分にある。
時刻は二時過ぎ。夜更かしをしない限り、寝ている可能性が高い。
カオルの部屋を見上げると、カーテンの奥から光が漏れていた。
「カオル…」
部長はぎゅっと拳を握り締めた。
カオルはベッドの上に横になり、自慰行為を行なっていた。
普段の冷静なクマ族の少年の姿はそこにはなかった。
野性に回帰したような激しい形相と、荒い呼吸。
ランニングを胸の下まで捲り上げ、脱いだトランクスを乱暴に蹴り落とした。
虚ろな目のまま、下腹部のそれに刺激を与え続ける。
脳裏には、密かに好意を寄せる彼のことを想いながら。
「…はぁっ…ぁっ……ぶちょ…うっ…」
叶わぬ妄想だということはわかっていた。
だが彼は、その妄想に酔い、やがて興奮は絶頂に達した。
とっさにハンドタオルでそれを覆う。
「うっ…!!」
カオルの巨体が何度も脈打つ。
先ほどまできれいだったハンドタオルに、じんわりと染みが広がっていく。
7、8回ほど身体が震えた後、液の放出は収まった。
射精直後のそれはまだ大きく天を突いているが、カオルの瞳には普段の冷静さが戻っていた。
自慰を行なった後は、自然と涙が溢れてくる。
「部長…」
部長への想いを叶えられない辛さ、それでも彼のことを自慰に利用してしまう愚かさ。
毎日の性的欲求を満たしても、満たされない想いはますます強まるばかりだった。
寝よう…
そう思って電気を消そうと立ち上がった時だった。
脱ぎ捨ててあったズボンのポケットに入れてあった携帯が着信音を鳴らした。
こんな時間に?
不審に思いながらも携帯を取り出すと、発信者の名前にギクリと身がすくんだ。
着信中 ぶちょー
「もしもし…?」
恐る恐る電話に出ると、いつもの間の抜けた声が返ってきた。
『カオル〜、今、だいじょうぶ?』
「ああ…どうした?」
『外、外!』
「は?」
『窓開けて!』
言われるままに窓を開けて下を覗くと、部長がブンブンと手を振ってこちらを見上げていた。
『こんな時間にごめん…上がってもいい?』
「えっ、あー!ちょっと待って!!」
さすがに下半身ハダカだったり、濡れたタオルを見られるのはまずい。
慌ててタオルをベッドの下に蹴り飛ば…そうとして、ベッドの角を思いっきり蹴ってしまった。
「っぉ………!!!」
片足を押さえてピョンピョンと跳び跳ね…その勢いで机の角に脇腹をぶつけた。
「がっ…!!!!」
下にいる部長からも、ピョコピョコとのたうち回るカオルの巨体は見えていたが、どういう状況かさっぱりわからない。
電話からは「がっ」とかいう妙な悲鳴が聞こえたのみ。
がっ。
『えっ、え〜と…ぬ、ぬるぽ?』
「違うわっ!」
このバカタヌキ。どこで覚えてくるんだそんな言葉。
ようやく痛みが治まり、壁にもたれて一息ついた。
バカタヌキ…か。
だから好きなんだろうな、きっと。
今度は落ち着いてズボンをはき、タオルを隠した。
「…上がっていいぞ。他の部屋の人、寝てるから騒ぐなよ」
部長は頷くと、マンションの階段をバタバタと駆け上がってきた。
騒ぐなと言ったのに一瞬で忘れたらしい…
「こいつは…」
思わず頭を抱えた。
部長がカオルの部屋のドアを開けた途端、カオルがゲンコツを振りかざした。
「ひゃっ!!」
頭を押さえて低い姿勢で身構えた部長を見て、ふっと息を吐いた。
「バカにつける薬はないか…」
部屋に上がり込んだ部長は、もじもじと下を向いたまま口を開かなかった。
たまにカオルを上目遣いで見て、すぐに視線を反らしてしまう。
一方のカオルは、先程の自慰の興奮が抜け切らないうちに部長が来てしまうという事態のため、まともに彼の姿を見れなかった。
だいいち、今日の部長のこの挑発的な格好はなんだ。
何を言いたいのか、火照ったように赤らめた頬と、浴衣の隙間から覗く茶色い体毛に覆われた肉付きの良い身体。時折流れる汗の臭いが、ますますカオルを興奮させた。
「…やばい」
「?」
「なんでもない…」
首を傾げる部長に、自分の股間がやばいとはとても言えなかった。
「カオル…」
「うん?」
部長はカオルの瞳を見て、すぐに目を反らしてしまった。
「うぅ…」
部長は何度も何度も視線をさまよわせている。
膝の上で握り締めた手は小さく震えている。
「…部長」
カオルはふっと息を吐いた。
部長がこういう顔をする時は、とても大事なことを抱えている時だ。おそらく原因は自分にあるのだろう。
「う〜…だめだおいら…」
コツンと部屋の壁に頭をぶつけた。
カオルと話すのが恐かった。
勇気が出ない。
だいたい、自分がどうしたいのかもわからない。
「おれのことか?」
「えっ…」
「おまえ最近、おれのこと避けてるし…」
弱々しい声だった。
カオルもまた、部長と話すことが恐かった。
「そんなことない…と、思う…」
「ぶちょ…」
「カオ…」
同時に口を開いた。
お互いに目を見合わせ、相手の言葉を待った。
「……おれのこと、嫌いになった?」
「……おいらのこと、好きなの?」
『えっ…』
お互いに一息で吐いた言葉が重なった。
カオルの問いに部長は首を振って答えた。
「嫌いなわけないじゃんか…」
「そうか…」
「…猪狩先生と、少し前に色々あったんだ」
「…ほう」
「あの先生、おいらのことが好きだったみたい…」
「……」
「で、好きな人同士ってわかるもんなのかな?カオルが自分と同じ目をしてるって…」
「それが知りたくて、こんな遅くにここまで?」
こくりと頷いた部長は、自信なさげにうつむいたまま顔を上げなかった。
「バカだな、ほんとに…」
カオルの手がくしゃくしゃと部長の頭をいじった。
「仮におれがおまえのことを好きでも、おまえがミナに恋してるんなら、おれはそれを応援したい。おまえが一番進みたい道を選んでほしい。」
「でも、おいらなんか…」
「ミナだって好きだよ、おまえのことが…」
「うぅ…」
…違う。
部長に笑顔を見せつつも、カオルの本心は違った。
部長に想われるミナに嫉妬していたし、今日だってできれば本心を打ち明けたかった。
だが、壊れかけた部長の心に追い打ちをかけることはしたくなかった。
部長がミナに恋して、笑っていられるならそれでいいんだ。
そうやって自分を納得させた。
「おいら鈍いから、今まで人の気持ちとか全然わからなくて、ただはしゃいでたけど…」
「それがおまえなんだよ」
「え…」
「図々しくて無神経で欲張りで…おまけにバカで…そんなおまえだから部長なんだ」
部長の隣に並んで座った。
「おまえは、変わらなくていいんだ」
カオルの言葉に、思わず部長の目に涙が溢れだした。
「おいら…本当にバカだよ…なんで今の今まで気が付かなかったんだよぉ…!」
自分に対する怒りを込めた口調だった。
他人の気持ちにどう応えるか。それ以前に自分の気持ちを知ろうとしていなかった。
小さい頃から、どんなときでも横にいてくれた。
何もかもを受けとめてくれた。
当たり前に感じていたことだったから、気付いていなかった。
いつからだろう…?
おいらは…
「おいらが好きなのは…好きなのは…!」
次の言葉は出なかった。
「…部長、おまえの気持ちは嬉しいけど、それは、言っちゃいけない…」
「でも!」
「おまえには幸せになれる道を選んでほしいんだよ…」
そう。
おれには、部長を幸せになどできない。
おれとミナ。
おれを選んでしまったら、部長は…
「カオルの言う、幸せって何さ?」
「え…」
「おいら今…カオルと一緒にいるこの時間が幸せだと思う…」
カオルの肩に頬を寄せる。
「おまえ…」
「聞いてほしい。おいらが出した答えだから」
いつからこんな真剣な顔ができるようになったんだ、とカオルは思った。
こいつのことは小さい頃から知ってる。
お調子者で人一倍明るくて…でも本当はすごく繊細で壊れやすいやつなんだ。
何度も、おれが支えてきた。
人と接することが苦手なおれに、力と勇気を分けてもらった分だけ、おれもこいつを助けてきたんだ。
カオルは、ゆっくりと頷いた。
「…おいら、カ、カオルが…」
真っ赤に顔を火照らせ、強く握った拳は細かく震えている。
その身体は深夜の涼しい室内だと言うのに、汗だくだった。
「カオルのことが、す、すっ…」
「…バカたぬき…」
「!?」
ぎゅっ…
カオルの大きな腕が、部長の身体を包んでいた。
「ぁぅ…」
鼻先はカオルの胸に圧され、少し息苦しい。
恐る恐る視線を上げるが、この態勢からカオルの表情は伺えない。
でも。
「あったかいや…」
「聞かせてくれるか…?」
部長はゆっくりと、強く、カオルの背に腕を回した。
「おいら、カオルが好きだ…」
「部長…」
やっと言えた。
込み上げる安堵と、そして、溢れだす涙。
「カオルが大好きなんだよぉ…!!」
カオルの腕はより強く部長の身体を捕らえた。
「おれだって…!」
カオルは考えることを放棄することにした。
相手と自分、お互いが想い合っている。
確かな絆がある。
きっとそれはお互いにとって幸せと呼べるものだろう。
今、始まった。
これから先、何があるかわからない。
二人でなら乗り越えられるさ、なんてお決まりの台詞を吐く自信もないけど。
でも今はただ、この小さなたぬきを抱き締めていたかった。
「カオル…」
部長は腕の中で小さく声を漏らした。
「なんだ…?」
「ありがとう…!」
部長のしっぽが一際大きく揺れた。
東の空はかすかに白んでいる。
時なんか、止まっちゃえばいいのに。
今、始まったこの恋を、ずっとずっと、大切にしていきたいから。