八章「伝心」
「…鼓?」
健介は足を踏み入れるなり、部屋の様子がおかしいことに気付いた。
薄暗い部屋の中、自分のベッドがギシギシと音を立てている。
「なんだ、俺んとこで寝てんのか」
洗濯物を置き、部屋の明かりを付け、ベッドの横に立った。
「え…」
独特の匂いが鼻をつく。
頭から布団を被った鼓の、ハァハァという荒い息遣いも聞こえてくる。
「おい…」
健介が、布団に手をかけようとした時、鼓のくぐもった声がそれを阻んだ。
「見ないで!!」
「鼓…」
健介は手を引こうかと数秒躊躇った後、鼓の肩があるであろう位置に優しく手を置いた。
布団越しに鼓の身体がビクッと震える。
「どうしたんだ?俺が布団汚されたぐらいで怒るかよ」
「やだぁ…」
「何がヤなんだよ…?」
そう言いかけ、鼓の言葉から「〜っす」が抜けているのに気付いた。
そうか、と健介は手を離した。
今布団の中にいる鼓は、健介の弟分としての鼓でも、腹鼓師としての鼓でもなく、一人の18歳の雄としての鼓なのだ。
思春期を抜け出すことなく成長してしまったのか、精神的な変化に鼓自身が対応しきれていないのかもしれない。
健介もまた戸惑うと同時に、目の前で身を縮めるそんな鼓が愛おしくてたまらなかった。
ゴクリ、と生唾を飲む。
「鼓…?」
「……」
「頼むから、顔だけでも見せてくれよ…」
「でも…」
「頼む」
しばしの逡巡の後、鼓はそっと布団の隙間から顔を覗かせた。
真っ直ぐに自分を見つめる健介と視線が会った。
「健兄ぃ…」
ずっと抑えてきた感情が噴き出しそうになるのを、鼓はぐっと堪えた。
それでも抑え切れない想いが、涙という形で溢れ出す。
「…ごめん…おいら、おいら…」
口を開く毎に大きくなる涙と鳴咽が、鼓の言葉を阻む。
「鼓」
「……」
涙でぼやけた視界。健介の表情がわからない。
怒ってるの?笑ってる?それともおいらみたいに泣いてる?
「…!?」
鼓は、自分の背を抱き起こす強い力を感じた。
思わず顔を上げた時、鼓の唇を柔らかい何かが塞いだ。
「あむっ…?」
驚きながらも、舌を延ばしてみる。
甘い…
涙を拭い、それを手に取った。
「美味いぞ、さっき西城さんが分けてくれた温泉まんじゅう」
健介が、ニッと笑った。
「健兄ぃ…」
意表を突かれ、目を丸くする鼓の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「何も言わなくていいって。わかってるから。」
「健兄ぃ〜…」
また涙で瞳を潤ませる鼓の顔を、健介は自分の胸にぐっと抱き寄せた。
トクン、と、心臓の鼓動が聞こえた。
健介の腕の強さが、胸の暖かさが、嬉しかった。
健介の胸に顔を埋め、小さな小さな声で呟いた。
「大好きっす」
健兄ぃの耳には聞こえなかったかもしれないけど、それでもいいんす。
おいら、自分の気持ちを届けることができたんすから。
何十分の間そうして身を預けていただろう。
「落ち着いたか?」
健介が背中をポンと叩いた。
「はいっす。その…健兄ぃ…」
「うん?」
「ありがとっす♪」
鼓の陰りのない笑顔に、健介の顔がカッと赤く染まる。
「お、俺、別に何もしてないしっ…!」
「お礼に、夕方の約束果たさなきゃっすねぇ」
「約束って、何かしたっけ?」
「ほら、春香ちゃんにキスされちゃった時に」
「!」
思いだした途端、健介のしっぽがビクンと逆立った。
「あ…あの夜のお相手って…マママ、マジで言ってたの!!?」
ちょっと待て、こんな状況じゃ心の準備が…
いや、すでにアソコはギンギンに準備完了なんだけど。
「前々から準備してたんすよ、健兄ぃとやりたいなって」
「えぇぇっ!?」
待て!さっき自慰の現場押さえられて泣いてたのはどこの子狸だ!
しかし、すでに準備してあるということは、こちらも男として受けて立たねばな
るまい…
「ほら、これ♪」
鼓が健介に、一枚のディスクを手渡した。
オカズのDVDかと思ったが、タイトルにこう書かれている。
「ストレートファイターEX」
最近発売された、人気の対戦型格闘ゲームの最新作だ。
「……これは……」
「いやぁ、買ったはいいんすけど、こういうのって一人じゃおもしろくなくって〜」
健介の中で、何かが切れた。
「…受けて立っちゃるわコンチクショー!!!」
…どうやら長い夜になりそうだ。
『KO』
「あぅっ」
「健兄ぃ、格ゲーもヘタレなんすか…」
「こんにゃろ、もう一回だ!」
「え〜、もう六十五連敗っすよ!?」
「うるさい、俺が勝つまでやるのだ!」
「う〜、じゃああと一回だけ…」
『KO』
「…あと一回だ」
「えぇぇ!?」
翌朝、二人揃って寝坊し、女将の大目玉を食らうことは明らかだった…