九章「威圧」

楽運荘の脱衣所で、コソコソと服を脱ぐ鼓の姿があった。
またしても仕事から抜け出し、こっそりと温泉に入ろうという魂胆である。
とは言っても、与えられた仕事は決められた時間内できっちりこなしてきたので、余った時間をどう使おうが自由なはずだ。
たぶんホントはだめなんだろうけど、まぁいいや。
いいということにしておこう。
そんなお気楽極楽な考えの下、鼓は動いていた。

愛用の赤いバンダナを、普段使っている布地のものから、お風呂用のタオル生地のものに取り替える。
手ぬぐいを片手に準備を終え、大浴場に足を運ぼうとしたその時だった。

「つづみぃぃぃぃぃっ!!!」

「…はぁ」

ドタバタと駆け込んで来た健介に、ガックリと肩を落とした。

「みんながのんびり入るお風呂場で、浅ましい声で叫ばないでくださいっす!」

「あ、ごめんなさい…って何で俺が謝ってんだよ」

「またおいらの幸せなひと時を邪魔しに来たんすか!?」

「どの口が言うんだ、え!?この口か!!」

むぎゅっと、思い切りほっぺをつねった。

「い、いひゃぃいひゃぃ!いひゃぃっふ〜!」

頬をつねりながら、健介の視線がさ迷った。
よく考えたら鼓は全裸だ。
当然、まん丸いお腹の下には、今は萎えて垂れ下がっているあんなモノが付いている。
加えて、今は周囲に他の客はいない。
思わずこのまま押し倒したい衝動に駆られる。

「と、とりあえず服着なさい。話はそれからだ。」

「え〜…」

「早くっ!」

しぶしぶと服を着た鼓に、健介は今日の夕刊を手渡した。

「これ、さっき届いたやつなんだけどさ、」

そう言ってページをめくり、右下のほうに載っている小さな記事を指差した。

「これ!」

「なになに…温泉狸の腹鼓、娘の心を救う…」

その見出しで書かれた記事の執筆者は、宇佐見美雪と書かれている。

「…って、えぇぇぇぇっ!!?」

「あの人、この夕刊で毎週コラム書いてるみたい」

いきなりのことで混乱しそうになる気持ちを抑え、全文に目を通した。
あの日の春香との交流の様子が、穏やかな文章で綴られている。
鼓の実名は書かれていなかったが、女将が許可したのだろう、楽運荘の名は書かれていた。

「お、おいらこんな大したことしてないっすよぉ…」

「自信持てよ。おまえにしかできないことで、こんな記事書いてもらったんだからさ」

鼓の胸を肘で小突いた。

「そうっすかね?」

「腹鼓が見たいってお客さんの予約が殺到してるらしいぞ?こりゃしばらく鼓は休みなしかもなぁ…」

「えぇぇっ!?」

悪い気はしないが、さすがにそれは困る。
腹鼓は義務でやっているわけではないのだし、強制されてやるものでもない。

「おいら、それはイヤっす〜…」

泣きそうになる鼓に、慌ててフォローを入れる。

「あぁ、冗談だって!そういう風な目的の人は女将さんが断ってるみたいだから!」

「ならいいんすけど…」

鼓は再び、複雑な面持ちで記事に目を通した。
この記事が後に、鼓にとって大きな問題を引き起こすことを、未だだれも気付いていなかった。


同じ頃、とある小さな町の神社。
神主を務める狸の老人が、楽運荘の腹鼓を奏でる狸に関する記事に目を通していた。

「…けしからん話だ」

神主は静かな、しかし怒気を孕んだ口調で呟いた。
思い立ち、楽運荘の連絡先を調べ始めた…


記事が掲載された三日後の朝だった。
鼓は早朝から宿の周りの掃除に精を出していた。
周囲を森林に囲まれた楽運荘の朝は静かで、吹き行く初夏の風が心地良い。

鼓は鼻唄を歌いながら落ち葉を集めていたが、ふと道路の先に人影を見つけた。

まだ早朝の5時半である。
お客さんが来る時刻としては珍しい。
ホウキを動かす手を止め、目を凝らしてみるとどうやら鼓と同じタヌキ族のようだ。
グレーの短めの毛並みの毛皮に、鼓に負けず劣らずの大きさの腹。
口元にたくわえた長い髭。
歳は70歳を越えたぐらいだろうか。
静かに、しかし威厳の感じられる歩き方で向かってくるその男も、鼓のことに気が付いたらしい。
古めかしい和装に身を包んだその男は、無言のまま鼓の前に立つと、軽く頭を下げた。
鼓よりも二回りは大きいその初老の狸から、妙な威圧感を感じつつも、鼓も会釈を返した。

「ど、どうもっす…」

「楽運荘という宿は、こちらかな…?」

「あ、はいっす。お泊りの方っすか?玄関はこちらっすよ」

鼓が案内しようとすると、男は手を横に振ってそれを止めた。

「この宿に用があるわけではないんだよ」

男は深く青い瞳で鼓を見据えた。

「えっ…」

男の威圧感と視線に、鼓は心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような感覚を覚えた。

太いしっぽが警戒心を表すように逆立ち、一際太く見える。
早朝の爽やかなはずの空気が、今はとても冷たく感じる。

「あの…あなたは…」

萎縮した声で鼓が訪ねた。

「儂は証城寺響と言う者だが…」

「!」

鼓は、その名を知っていた。
同時に、この妙な威圧感の正体を知った。

「きょ…響って、あの…」

全身から冷や汗が流れる。思わず後退りをする鼓に、表情一つ変えることなく男は続けた。

「君も腹鼓師の端くれならば、名前くらいは知っていたかな?」

「…腹鼓協会…理事長補佐の、証城寺先生っすね…」

「いかにも」

鼓を始め、腹鼓の道を歩む者は皆、腹鼓師協会に所属している。
鼓が協会に直接接触した機会は段位昇格の際の試験の時だけだったが、トップに立つ数名の狸の存在は資料で確認していた。
中でも証城寺は理事長補佐、実質、全ての腹鼓師におけるナンバー2である。
本来なら鼓が軽々しく話せる存在ではないのだ。

「おいらに、何か御用っすか…?」

「小田貫、鼓…」

冷ややかな口調で名を呼ばれ、息が詰まりそうになる。

「鳴樹の息子が、こんな所で働いているとはな…」

「父ちゃんを知ってるんすか!?」

「知っているも何も、奴は儂の弟子だった男だ」

「父ちゃんが!?」

証城寺は鼓の頬に手を触れ、顔を持ち上げると、その緑の瞳を見つめた。

「父親に似た、良い眼だ。そして…」

ぐっと顔を引き寄せた。

「うっ…」

「父親に似て愚かしい」

「えっ!?」

「腹鼓師の道を外れるつもりか?小田貫鼓よ…」

「どういうことっすか!」

証城寺の手を、強く払いのけた。
いくら地位が高い相手とはいえ、父親のことを愚かと言われては黙っていられな
かった。
それに道を外れるとはどういうことか。

「君は何もわかっておらんようだな」

証城寺はすっと手を延ばすと、鼓のお腹に触れた。

「…っ!」

鼓の身体に、電気が流れたような感覚が走る。
証城寺は形を確かめるように鼓のお腹を撫で回すと、残念そうに溜め息をついた。

「これだけの名器を備えておきながら…除名とするには惜しい器だ」

「除名!?」

何故そんな言葉が出るのか、鼓にはさっぱりわからなかった。
何も悪いことをした記憶はない。

「君は、儂みずから鍛え直した方が良さそうだな」

「除名だとか鍛え直すとか、さっきから何言ってるんすか!?事情も説明されずにそんなこと言われても、何がなんだかわかんないっすよ!」

鼓が声を荒げても、証城寺は全く動じる様子がなく、ただ冷淡に鼓を見下すのみだった。

「うっ…」

同時に鼓は、証城寺の眼差しの奥に静かな怒りのような感情を感じた。
証城寺は無言のまま、鼓の腕を掴み上げた。

「なっ、何するんすか!?」

老人の握力とは思えないほどの強さだった。
振りほどこうと抵抗しても、まったく離れない。

「手荒な真似だが、失礼するよ…」

じたばたともがく鼓の腹に、再び証城寺の拳が添えられた。

「……っ!?」

ドンッ…!!!

腹鼓の音色だった。
証城寺が鼓の腹を打ち響かせた音色は、周囲の風を払い退け、木々を震撼させた。
突如響いた轟音に、木々の上で翼を休ませていた鳥たちが一斉に飛び立った。

「う…ぐっ……」

その音は、鼓の小さな身体では未だ受け止め切れるものではなかった。
全身の力が抜けていくのがわかった。
気を失い倒れかかる鼓を、証城寺の胸が抱き留めた。


「あいつ、掃除にいつまで時間かかってんだよ…!?」

鼓の帰りが遅い。
いつものように仕事を抜け出して温泉に行っている様子もない。
健介はふと不安になり、宿の外に走り出していた。

ドンッ…!!!

「!!?」

鼓の腹鼓の音にしては大きすぎるその轟音に驚きつつも、健介は一直線にその音が聞こえた方角に走った。

「鼓!!」

健介の目に飛び込んで来たのは、ぐったりと意識を失っている鼓と、それを抱き抱える大柄な老狸だった。

「君はこの宿の従業員かね…ちょうどいい。宿の責任者に伝えておいてくれないか…?」

「な、何!?」

「小田貫鼓は、腹鼓師協会の名において保護させていただくとね」

「ふざけるなっ!鼓を放せ!!」

「よく吠える犬だな君は。物分かりも良くない。ちゃんとしつけ直してもらいなさい」

「なっ…!!」

健介は人種としてのイヌ族であり、決して動物としてのイヌではない。
馬鹿にするにも程がある。あまりにも他人を見下した言い方に怒り、健介は殴りかかっていた。

「このジジイっ!!」

「…よく吠える上に平気で噛み付くか。困った犬め」

証城寺は右手に鼓を抱えたまま、左手の拳を握った。

健介が拳を伸ばす瞬間、さらに速い証城寺の拳が健介の腹に命中していた。

「ごふっ…!」

速く、重いその衝撃に、健介の胴体がくの字に曲がる。
そういえば以前、鼓の腹鼓の稽古に付き合ったことがあったが、腕の鍛え方に関しては尋常じゃなく厳しかったのを覚えている。
こと一般人に限って言えば、鼓と殴り合いの喧嘩をして勝てる者はいない。
そう思わせるほど、腹鼓師の拳というのは鍛えに鍛え抜かれた物なのだ。
この老狸もそうなのだろう。
まともな殴り合いでは勝負にならない。

健介は腹を抱えて膝をつき、一瞬で力の差を悟った。
だが、意志だけは負けるわけにはいかなかった。
腹に残る苦痛を堪え、目の前の老人を睨み付ける。

「鼓を…」

「心配しなくても、いずれこの子は自分の意思でここに戻るだろう」

「何…!?」

「君らに別れを告げるためにな…」

冷酷な笑みを浮かべ、鼓を両手に抱いた証城寺は健介に背を向けた。

「ま、待てっ…!」

震える手を伸ばすが、先程のダメージから足腰が立たない。

立てっ!立てよぉっ!!

健介は悔しさに涙をこぼした。

どれだけ鼓にヘタレと馬鹿にされようが、その鼓を守れるだけの根性もないのか。

こんな時までヘタレでいられるか!
だから、立ってくれ!!

健介の意志に反し、健介の上体は前のめりに倒れ込んだ。

すでに証城寺の姿は何メートルも先だ。

健介は延ばした手で、土を掻きむしった。

「鼓ぃ…」

鼓の姿が小さくなるに連れ、健介の意識も白い闇の中に落ちていった。


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