六章「鼓舞」

昼食を取った和食処。
女将のお勧めの店とはいえ、宇佐見母子の口に合うか心配だったが、幸いなことに母子揃って和食好きとのことだった。

しかし、春香が美味しそうに湯豆腐を頬張っているのに対し、鼓は豆腐だけは口にしようとしなかった。
小さい頃から豆腐は苦手なのだ。
豆腐の何が苦手なのかと聞かれても答えられないが、よほど特別な調理をされた
もの以外、豆腐は口にできない。
それを知っている健介は、わざと鼓に湯豆腐を勧めてくる。
食べられなくて困っていると、美雪に笑われてしまった。

「小田貫さん、お豆腐苦手なの?」

「えぇ、まぁ…」

「後でお豆腐のグラタンのレシピを教えてあげましょうか。それなら食べられるんじゃない?」

「へぇ、おいらグラタンなら大好きっすよ〜」

豆腐でグラタンが作れるなんて知らなかった。
お客さんとの会話は、大きなことから小さなことまで、いろんなことを知ることができるから楽しい。

「なぁ、鼓」

「ん?」

健介が鼓に小さく耳打ちした。

「良かったな、無事に終わりそうで」

「んー…」

昼食を終えたら、ラベンダー園の見学を残すのみである。
だが鼓には一つ、心に引っ掛かっていることがあった。

「このまま終わっちゃっていいんすかねぇ…」

鼓は、車椅子に腰掛けたままの春香の足を、心配そうに見つめていた。

「ん…まさかおまえっ!」

「あぅっ!?」

健介はいきなり鼓の腕を掴むと、強引に立ち上がらせた。

「どうしたんですか?」

「いやぁ、ちょっとトイレに…」

驚く宇佐見母子をごまかし、健介は鼓を引きずって無理矢理トイレに連れ込んだ。

「いきなり何するんすかぁ!」

「うるせぇ!おまえの考えなんざお見通しなんだよ!」

健介は人差し指を鼓の額にグイッと押し付けた。

「お人好しなおまえのことだ、どうせあの娘になんとか歩いてほしいとか考えてんだろ!?」

「んぁ、その話は…」

「水族館で聞こえてたの。俺様の耳はデキがいいからなっ」

ピンと耳を尖らせてみせた。

「なんつーか、馬の耳に念仏っすかね」

「…それ、意味わかって言ってる?」

「ん。」

…鼓的にはあんまりわかってなかった。

「とにかく、俺はそこまで干渉するのは賛成できない!」

「なんでっすか?」

「そんなのは俺達の仕事じゃないだろうがよ!」

「でも、歩けるのに歩かないなんて、もったいないっすよ?」

「頼まれてもいないのに、余計なお世話だってことになったらどうする!?」

「それは…」

「なぁ鼓、おまえの今からやるべき仕事は何だ?」

「…二人に、ラベンダー園の案内を…」

いや、違う。

「そう、それだけきちんとこなせば何の失敗もなく終わるんだよ。」

確かに健介の言うとおりにすれば何の苦労もなく仕事を終えることはできるだろう。
でも、それだけでいいのか。

これは−おいらの仕事っす。
おいらがおいらのやり方で、自分の責任でやらなきゃ。
健兄ぃの言うとおりにだけ動いていたんじゃ、おいらに任された意味がないっす…

「健兄ぃ…」

「ん?」

「おいら、自分の仕事がしたいっす…お客さんには、これ以上ないってぐらい楽しい思いをしてほしいんす」

ぎゅっと、拳を握った。

「うまくいかなかったら、笑ってくれて構わないっすから!」

「やっぱ、譲らないか…」

コクンと、鼓が頷いた。
健介が諦めたようにため息を吐いた。

「いいよ、やってみ…」

「は、はいっす!」

鼓は元気よく答えると、短い足でドタドタと宇佐見母子の待つ食卓に駆け戻って行った。

「ふぅっ」

鼓の背中を見送りつつ、健介が一つ、息を吐いた。

「あいつの仕事、か…」

もう鼓に背中を追われる立場ではなく、鼓の背中を見送る立場になってきているのかもしれない。
その感覚に、健介は軽い戸惑いを覚えていた。


ラベンダー園は、昼食を取った店から車で20分ほど進んだ場所で、海が一望できる丘に作られていた。
宇佐見母子は車を降りるなり、ふわりと風が運んできたラベンダーの香りに魅了されていた。

「綺麗…」

春香がポツリと呟いた。

「春香ちゃん、気に入ってもらえたっすか…?」

鼓がそっと車椅子を押した。

「…まあまあね。でも、お客さんを気に入らせるのは当たり前のことでしょ」

「てへへ、やっぱ厳しいっすねぇ」

鼓はラベンダーの園をゆっくりと、足を進めた。

「でも、そのぐらい強くなきゃ、生きていけないっすもんね…」

その言葉にハッと感づいた春香が、美雪を睨んだ。

「お母さん、もしかして喋ったの!?」

美雪が、困った顔で頷いた。

「なんで話したのよ!!他の人には関係ないでしょ!?」

「春香ちゃん、お母さん困らせちゃいけないっすよ」

鼓は車椅子を止めると、春香の正面に回り込んだ。

「ホントは歩けるんっすよね?」

「…歩けるわけないでしょ」

「ふむ〜…」

鼓は腕を組んで少し考えると、諦めたように息を吐いた。

「じゃぁ、いいや!」

「え…」

「誰の助けも借りずに、一人で立って、歩くのは簡単なことじゃないっすから。無理してやる必要ないっすよね」

鼓はそう言いながら、自分と春香の姿を重ね合わせていた。
思えば、先ほどトイレで健介と話した時、ほんの一瞬だが健介の言葉に流されたほうが楽だと思ったことも事実だ。
自立し、自分の力で何かを成し遂げるということは、時にそうした楽な道を自ら切り捨てなければならないということだ。
それを強制する権利は誰にもない。

「…春香ちゃん?」

「……」

鼓に呼ばれたが、春香は顔を背けた。
鼓は数秒、ためらうように手を揉んだ後、柔らかく微笑んで言った。

「これはおいらの独り言ってことで、聞き流してもらっていいんすけど…」

ぽてっ、と芝生の上にお尻を降ろした。
車椅子の上の春香の顔を下から見上げる形となった。

「おいらもね、小さい頃に父ちゃんと母ちゃん、死んじゃってるんす〜。」

当たり前のことのようにサラッと言ってみせた。

「昔はひどかったんすよ、おいらも。とにかく寂しくて、いろんな人に八つ当たりしてたっけなぁ」

「そんな作り話言って、私の気を引こうとしても…!」

「作り話と思われてもいいっすよ?だっておいら、独り言言ってるだけっすもん」

「…なんなのよ…」

「どうしたらいいかわかんなかったんすよ。どんなに無理言って人を困らせても、みんなおいらの境遇知ると同情して叱ってもくれないし。かわいそうとしか思ってくれないから、余計に八つ当たりもひどくなっちゃうし」

「……」

「きっかけがないと、なかなか変われないもんっすよ」

そう言って、ぽっこりと出た自分のお腹を撫でてみせた。

「きっかけ…?」

「うん、おいらの場合は、これっすよ♪」


ポンッ…!


静かな花園に、ひとつ、軽妙な音色が響いた。
ふわりと吹き抜けた風が、花びらを舞わせ、鼓の毛並みを揺らした。
春香も美雪も、健介も、しばし続いたその光景に感嘆した。

「この音を自分が出せるって知った時、おいら、八つ当たりをやめたっす。この音を極めてみようって思った時、みんなの気持ちが同情から声援に変わったんすよ!」

嬉しそうに尻尾を揺らして語った。

「自分の力で頑張ろうとする時、きっとそばにいる誰かが支えてくれるはずっすよ」

「そばにいる、誰か…」

春香が心配そうに見つめている母の姿を目にした。

「…お母さん…」

鼓は、美雪の横に立つ健介に、照れ臭そうに目を向けた。

「いつだって独りじゃないから。いつだって側にいてくれるから。だから一人で頑張ることができるんすよ」

「鼓…」

鼓はゆっくりと作務衣を脱ぎ、ざっと畳んで足元に置いた。
鼓の身体を包む淡い茶色の毛皮が夕陽を浴び、黄金色に光る。

「春香ちゃん、ちょっとだけ、自分の力で立ってみないっすか?」

「でも…」

「できるはずっすよ。だっておいらも君も、独りじゃないっすから」

「……」

春香はしばし目を閉じ、スッと息を吸い込むと、車椅子のブレーキにロックをかけた。
思わず駆け寄って来た美雪が、不安げに春香の身体を支えようと手を延ばす。

その手を、健介が回り込み遮った。

「手を貸しちゃダメです…たぶん、力になるっていうのは、そういうことじゃないんだと思います」

「乾さん…」

春香が、ゆっくりと腕に力を入れ、両足を前に押し出した。
ちょん、とつま先が芝生に触れる。

「うっ…」

思わず足を引いてしまった。
恐怖心から、無意識に体が地に足を付けることを拒否してしまう。

「やっぱり、む…」

無理、と言いかけたところで、またあの音が響いた。

ポポンッ…!

鼓は大きく息を吸い込み、静かに、軽くリズムを刻み始めた。

そのリズムに押されるように、再び春香が足を伸ばした。

健介はその響きに耳を傾け、思った。
鼓にしかできない仕事とは、こういうことなのだろう。

春香の額に汗が滲む。
すでに足は完全に地面に付いている。
後は立つことができれば。

ポンッ、ポポンッ、

「もう一息っす…!」

ここまで来れば、後はなるようになるしかない。
怖がっていては何もできない。
春香が、ぐっと足に力を入れた。

…ポンッ!

「!!」

大地の重さが、春香の全身に伝わった。

「やった!」

思わず健介が感嘆の声を上げた。

「あっ…」

自分の身長の高さに、景色が飛び込んでくる。
恐る恐る、一歩右足を踏み出す。
久々に草を踏む感覚が心地良い。

「歩ける…!」

「ね♪」

鼓が、ポンッ!と最後の一打を叩き終えた。

「あっ…」

まだ歩き慣れていないせいか、バランスを崩した。

「…っとと、」

慌てて鼓が支えた。
春香の顔が赤らむ。

「大丈夫っすか?」

「あ、あんた…」

「ん?」

「私より背、低かったのね」

意地悪そうに笑ってみせた。

「あぁん、口が悪いのは変わらずっすか!?」

「でも、ありがと」

春香が鼓の肩を押さえ、顔を近づけた。

「んっ!!」

「あ〜〜〜〜〜〜っ!!!」

その光景に、健介の絶叫が轟いた。
美雪の白い顔も真っ赤に染まっている。

「あ、あいつ…俺より先に鼓の…」

意外な、ファーストキスだった。

「う…うぁぁ、健兄ぃ〜っ…」

気まずそうに健介に助けを求めた鼓だったが、

「うぅぅ〜〜〜っ!!!」

「…ひっ!!」

飢えた獣のような健介の眼差しに思わずしっぽを立てた。

「けっ…健兄ぃには今夜たっぷりと相手してあげるっすからぁ〜!」

言ってから後悔した。
今夜は長い夜になりそうだ。

沈みかけた夕日が、大地を金色に染めていく。
鼓はふっと肩の力を抜き、瞳を潤ませている美雪の足元に歩み寄った。

「すいませんっす。おいらの独断で、出過ぎた真似をしちゃって…」

「ううん、」

美雪は軽く涙を拭くと、鼓の手を握った。

「ありがとう。本当に素敵な一日になりました…」

「いやぁ、良かったっす。宿に戻ったら温泉を心行くまでお楽しみくだせぇ♪」

鼓は春香の肩を軽く叩いた。

「足のリハビリにもちょうどいいっすから♪」

「は〜い!」

今朝とは打って変わって明るい笑顔がそこにあった。
空には少しずつ、星が瞬き始めていた。


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