五章「笑顔」

「こんにちは、お世話になります」

「宇佐見様ですね。ようこそいらっしゃいました」

土曜日の朝10時、女将がウサギ族の母子を出迎えた。

「無理を言ってしまいすみませんでした…でもこの子がどうしてもって聞かなくて」

母親が示した先に、車椅子の少女がいた。
年は10歳ぐらいだろう。母親によく似た美しい毛並みと、長い耳が印象的だった。
女将が微笑みかけたが、プイと目を逸らしてしまった。

「あら」

「すみません…無愛想な娘で…」

「ふふ、気にしませんよ。」

女将は柔らかく笑うと、「こちらへ」と、客室へと二人を案内した。


「健兄ぃ、何度も言うっすけど…」

「わかってるっての!俺ぁ一切口出ししません!」

鼓と健介が旅館横に停めた車の前で、お客さんが来るまで待機していた。
女将が部屋まで案内した後、楽運荘の地域観光用の車両まで連れてくる手筈となっていた。

「はぁあ…」

鼓が健介を見てため息をついた。

「なんだよ」

「いや…おいら一人でやるって言ったのに、結局健兄ぃと一緒なんすよねぇ…」

「仕方ないじゃん、鼓、車の免許持ってないんだし」

「迂闊だったっす〜…」

「ちゅーかおまえ、俺と一緒がそんなにイヤか!?」

「だってうるさいんっすもん、健兄ぃ」

「だから今日は黙ってるっつーの!俺がするのは運転だけっ!!」

ガミガミと怒鳴り立てる健介を見ていると、とてもじゃないがおとなしく運転しているだけというのは想像できなかった。
とはいえ、なんだかんだで心配してくれているということは鼓にとっても嬉しかった。
実際、強がってはいても本当に一人でできるのかというと不安はあった。

「あ」

旅館の玄関から女将と二人の客が出てくるのが見えた。

鼓と健介は姿勢を改めると、頭を下げて出迎えた。

「こちらが今回ご案内致します、小田貫と乾です」

女将が二人を軽く紹介するのに続いて、ウサギ族の母親が深く丁寧にお辞儀をした。

「宇佐見美雪です、よろしくお願いします。」

綺麗な奥さんだ、と健介は思わずしっぽを振っていた。

「おいら、今回ご案内させていただく小田貫鼓っす!」

「自分は同行させていただく乾健介です。小田貫が不慣れなもので、お困りの際は自分にお申し付けください」

「よろしくお願いします」と美雪が健介に微笑んだ。

「あっ…」

ふと、鼓が少女の前で視線を合わせるべく、腰を下ろした。

「こんちわっす♪」

少女に向けてにぱっと笑った。

「…こんにちは」

返ってきたのは気のない返事だった。

「おいら、鼓っす♪君の名前は何て言うっすか?」

「……」

「あ、恥ずかしいっすかね?」

鼓が首を傾げた。

「ちゃんと答えなさい」と美雪が嗜めたものの、予想外の答えに一同は度肝を抜かれることとなった。

「アタシの名前が何であろうと、あなたたちには関係ありません!」

「ふぁ…」

健介も女将も、さすがに唖然としてしまった。
美雪が恥ずかしそうに顔を覆った。

「ん〜…」

その中で鼓だけは、少女の瞳をじっと見つめたままだった。

「じゃあおいら、君のこと何て呼んだらいいんすかね…?」

決して呆れた口調ではなかった。
鼓は純粋な疑問として、少女に訪ねていた。

「すみません、この子の名前は…」

美雪が代わって答えようとしたその時、無愛想ながらも少女が口を開いた。

「…るか」

「うん?」

「春香よ!」

「春香ちゃんっすか♪かわいい名前っす!」

鼓は満足そうに笑ってみせた。

その光景を見て、健介が女将を小突いた。

「女将さん…大丈夫なんですかコレ。相当クセのあるお嬢さんじゃ…」

「あら。ちょうどいいんじゃない?」

「はぁ…?」

女将の真意が理解できたのは、全てが終わった後だった。


楽運荘を出た車は、第一の目的地へと進んでいた。

当初は運転席に健介が座り、助手席に鼓、後部座席に宇佐見母子が座る予定だっ
たが、出発前の女将の判断で、後部座席には鼓と春香が座ることとなった。

「それでは今日の日程について、軽くご案内させていただくっす」

鼓は宇佐見母子に、パンフレットを手渡した。
今回訪れる観光施設の資料を束ね、簡単な製本を施したものだ。

今回はまず水族館を訪れた後、女将イチオシの和食レストランで昼食を取り、夕
焼けの美しいラベンダー園に向かう予定となっていた。

興味深そうに目を通す美雪に、鼓が不安げに話しかけた。

「あの…おいら今回が初めてのご案内で…お気に召さなかったら申し訳ないっす」

「いいえ、とても珍しいサービスをしてらっしゃるから、楽しみにしてたのよ。
女将さんから聞きました。どこを巡るか、あなた一人で考えたんですってね。すごいわぁ」

「いやぁ、おいらは何も大したことは…」

照れ臭そうに頭をかく鼓の横から、思わぬ一言が飛び出してきた。

「そうよお母さん。この人はそれが仕事なんだから、当たり前じゃない」

「春香!」

美雪が慌てて鼓に頭を下げた。
鼓は、まったく気にする風でもなく頭を横に振ると、

「たはは、春香ちゃんの言うとおりっすよ!ご感想を頂くのは、全部お楽しみいただいた後ということで」

鼓のふんにゃかとした笑顔に対し、春香はさらに容赦ない一言を叩き付けた。

「だいたいあなたトロそうだけど、ホントにちゃんと案内してくれるんですか?」

「おーまーえーなーっ!!!さっきから黙って聞いてりゃ言いたいほうだ…むぎゅーっ」

「はーいはい、健兄ぃは危ないから前見て運転っす」

勘忍袋の緒が切れて後部座席に顔を乗り出そうとした健介の鼻を、鼓の手がむぎゅっと押さえた。

「んっと、」

春香に向き直った。

「おいら、確かにトロくて半人前だけど、ちゃんと春香ちゃんたちを案内することは約束するっすよ。それで気に入らないことがあったら、いくらでも怒ってほしいっす」

「…あなた、なんで怒らないんですか?」

春香が不信感の込もった口調で言った。

「そうだ鼓!怒れ!ぶん殴ってしまえっ!」

鼓は言われた通り、ぶん殴った。
キャンキャンとわめく健介の頭を、にこやかに。

「いたぃ…」

「なんで怒らないかって…そうっすねぇ」

鼓は軽く腕を組んで、考えを巡らせた。

「うん、怒ってても楽しくないっすからね♪」

実にシンプルな鼓の答えに、春香が呆れたような顔をした。

「おいら、お客さんを楽しませるのがお仕事っすから。怒っても楽しくないし、怒られても楽しくないっすよ」

ポン、と一回、腹鼓を打ってみせた。
春香はしばらく鼓の締まりのない顔を見つめると、フンッと顔を背けた。
だが直前のほんの一瞬、春香の顔がほころんだのを、鼓は見逃さなかった。


最初に立ち寄った水族館で、春香は口数こそ少なかったものの、特に機嫌を悪くした様子でもなく楽しんでいた。

春香が水槽のガラス越しを悠々と泳ぐジュゴンの巨体に目を奪われている際、美雪が鼓に小さく打ち明けたことがあった。

「小田貫さん」

「はい?」

鼓は健介に車椅子を押すのを代わってもらうと、美雪の前に向き直った。

「ごめんなさいね、ずいぶん気を悪くされたんじゃ…」

「何でっすか?」

「ほら、うちの娘、口が悪いでしょう?」

「そうっすかね?」

鼓がちらっと春香に目を向けた。
春香は二人の話などまったく聞こえていない様子で、ジュゴンやイルカに見入っている。
何か嫌味を言われたのだろう、健介の顔がまたしても引きつっている。

「ん〜…ちょっとキツイ言い方することもあるけど、素直ないい子だと思うっすけど」

「ふふ、お世辞でもそう言ってくれると嬉しいわ」

お世辞?と首を傾げる鼓をよそに、美雪がしんみりと言った。

「そう、少し前まで素直な娘だったんです…実は三ヶ月前に、父親を事故で亡くしまして…」

「!」

一瞬、鼓の全身の毛が逆立った。
自分のことではない。だがどうしても脳裏に、13年前の記憶が蘇ってしまうのを止められない。

「…小田貫さん?」

それまでずっとふんにゃかとした笑顔を絶やさなかった鼓の急な様子の変化に、美雪が心配そうに声をかけた。

「あ…いや。つ、続けてくださいっす♪」

またいつものように笑ってみせたが、どう見ても無理矢理な作り笑いだ。
戸惑いながらも、美雪は話を続けた。

「その事故で、お父さんと一緒に車に乗ってた春香は助かったんですが…足を折ってしまって…」

「それで車椅子に?」

「はい…でも、父親を亡くしたことと含めて、よほどショックだったんでしょうね。本当はもう、普通に歩けるはずなんです…」

鼓はキュンと切なそうに鼻を鳴らした。

「それに何よりも、あの子が笑わなくなったことが悲しいです。前からわがままな子ではあったんですが、父親がいなくなってからはこの通りで…」

「おいら、わかるっすよ」

「え?」

「おいらも、小っちゃい頃に父ちゃんと母ちゃん死んじゃったから…」

「あ、ごめんなさい…」

「いえっ」

申し訳なさそうに頭を下げる美雪に、優しく声をかけた。

「おいらも昔はあんな感じで、よく女将さんたちを困らせたもんっすよ。ん〜、そうっすね。確かにあんまり笑わなかったかもしんないっす」

そう言う鼓には、もういつも通りの笑顔が戻っている。

きっと少々辛いことを感じても、すぐに消化する術を無意識ながらも知っているのだろう。

「でも大丈夫っすよ!」

「え?」

「春香ちゃん、さっき笑ってくれたっすから♪」

美雪が驚いた顔で春香に目を向けた。
春香は相変わらずの仏頂面だが、イルカが華麗に水中を舞う度に目を丸くして感嘆の声を漏らしている。

「あの子、この旅行も嫌がってたのに…」

美雪が、可笑しそうに笑ってみせた。


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