三章「騒乱」

とある朝。
楽運荘・受付の奥にある事務所で、鼓と健介が女将から仕事の指示を受けていた。

彼等の仕事は主に、お客さんが宿泊する部屋の掃除や料理の提供などである。
全部で25室ある部屋を、10人の従業員で担当している。

「今日はねぇ、昨日の夜から新緑の間に宿泊されてる、八木沼さんのお部屋をお願いしたいんだけど…」

女将はそう言って顔をしかめた。

「どーしたっすか?」

「ちょっとクセのあるお客さんでねぇ…あなた達、虫は大丈夫?」

「虫ぃ?」

「八木沼さん、大学の教授さんなんだけどね、昆虫を研究されてるらしいのよ…」

女将はそう言いつつ身震いした。
虫なんかを喜んで触るなど、女将には到底考えられなかった。
あのたくさんの足がモゾモゾと動く姿や、黒光りするその姿を想像するだけでもおぞましい。

「天下の女将さんも虫だけは苦手ってわけですねぃ」

健介が茶化した口調で言った。

「あなたねぇ、私のこと馬鹿にしてられるのも今のうちですよ?部屋入ったら絶対驚くんだから…」

とにかくお願いしますね、と言って、女将は受付に二人を立たせた。
まだ朝の6時だが、八木沼さんがそろそろ昆虫採集に出掛ける時間らしい。

「健兄ぃ…」

不安気な口調で、鼓が健介の腰をつっついた。

「どした?」

「その…おいらも虫は苦手なんすけど…」

「おまえもかっ!女将さんに似たのな」

「やっぱ、部屋に虫がたくさんいるっすかね?」

鼓の顔色が悪い。
言いながら状況を想像して気持ち悪くなってしまったらしい。

「バカ、たいしたことないって。どうせカブトムシが何匹か水槽か何かに入れてあるだけだろ」

「おいら、カブトムシもクワガタもダメなんすよ〜…」

「だらしねぇなぁ…ま、虫はオレに任せとけよ!これでも昔は虫取りケンちゃんって呼ばれてたんだぜ!」

「おお、頼もしいっす♪」

「ふふふ、そうだ尊敬しろ!惚れるなら今のうちだぞ…!どうだ、惚れたか?ふっふっふっふ」

「あのぉ、八木沼ですが…」

「はひっ…!」

いつの間にやらヤギ族の紳士が目の前にいた。
デレデレした顔を思いっきり見られた。
恥ずかしい!!
途端に体が硬直してしまった。

「は〜い、お出かけっすね?」

鼓はそんなことまったく気にせず、八木沼から部屋の鍵を預かっていた。

「夜8時頃に戻るので、できれば夕食はその時間帯に用意していただけますかな?」

「はいっす、10時までの間でしたらいつでも構いませんので!」

「そりゃ良かった、では…」

にっこりと微笑んで、八木沼は外に出ていった。

「健兄ぃも突っ立ってないでなんか仕事してくださいっす!」

「うへ、ごめん…」

「まったく、先輩のくせに仕事サボるなんて!」

リストに記帳しながら、鼓が不満を口に出した。
しかしちょっと待て。

「と言いつつ、昨日の夜おまえがサボって風呂入ってたのを見逃してやったのは誰だ?」

「う……」

「しかも一度や二度じゃないよな?アレに比べりゃほんの数秒ぐらい…」

「さて、部屋の掃除に行きましょ〜♪」

「うぁっ!話逸らしやがった!」

「はいはい、健兄ぃは頼もしいっすねぇ♪」

「関係ねーだろーが!!」

「うるっさいねぇ健介っ!!」

「きゃいんっ!!」

事務所から女将の鉄拳が飛んで来た。

気にも止めずにずんずんと歩き去っていく鼓の背中を見て健介は思った。

「オレ…もしかして遊ばれてるだけ…?」

もしかしなくてもその通りだった。


新緑の間。
鼓はなかなかその部屋の鍵を開けることができなかった。

中にいるのがカブトムシでも、苦手なものは苦手なのだ。

「うぅっ…」

「あれ?まだ開けてなかったのかよ」

掃除用具を担いで後からやって来た健介が、扉の前で背中を丸めている鼓に声をかけた。

「け、健兄ぃ、先に入ってくんないっすか…?」

「てめぇ、調子良すぎだぞコンニャロー」

「さ、さっきは悪かったっすよぉ〜!」

「ったく、虫ぐらいで何を怖じけづいてんだか…大したことないって。ほら…」

そう言って扉を開けた途端、健介は絶句した。

「……っ!!」

「何すか健兄ぃ?」

鼓が部屋を覗こうとしたのを、慌てて健介の手が遮った。

「みっ…見るな!」

「いや、見たくないっすけど、部屋の掃除はしなきゃどうにもならないっすから…」

鼓は健介の手をどかし、部屋を覗き込んだ。

「あ、バカ…」

「ひっ!!!」

部屋の中には、想像を絶する光景が広がっていた。
部屋の床を埋め尽くすように無数の水槽が積み上げられ、その中には様々なクモ・ムカデ・サソリなどが蠢いている。

「どうやら昆虫博士というか…害虫博士らしいな…」

「あ、ありえないっす…こんなのどっから持ってきたんすか…!」

「もともとこの辺りの昆虫の調査目的ってことで泊まられてるから、きっとこの周辺で捕まえてきたんだろう…」

「こんな所にサソリなんかいないっす〜!」

鼓はイヤイヤと頭を振った。

「とりあえず…掃除しようか鼓っ」

鼓の肩に手を置いた。

「なっ!健兄ぃ、虫は任せろって言ったじゃないっすか!!ここは健兄ぃが…」

「害虫は別だよ!!おまえだって今掃除しなきゃって言っただろうがよ!」

二人が睨み合ったまま、数十秒が過ぎた。

「とりあえず…」

健介が観念したように目を閉じた。

「二人でやるっすか…」

二人はなるべく水槽を見ないようにしながら部屋に足を踏み入れた。

「まず、床のゴミを…」

健介がゴミを探し出そうとしたが、視界に入ってくるのは害虫ばかりである。

「なぁ鼓、俺、今この仕事辞めたくなった…」

「ほ、ほら健兄ぃ、そこにティッシュが落ちてるっす…」

水槽と水槽の間に、丸まったティッシュが落ちていた。

健介は恐る恐るそれをつかみ取ると、ゴミ袋に放り込んだ。

「ふう…」

「ねぇ健兄ぃ…ふと思ったんすけど」

「どした?」

「布団を入れ換えるっすよね?」

「うん」

「アレ…」

そう言って鼓が部屋の隅に敷いてある布団を指差した。

「んげっ…」

床だけでなく、布団の上にまでいくつもの水槽が置いてあった。

「退かさないと、布団敷くの無理っす」

「むしろこの床の水槽も全部一カ所にまとめないと動けないな…」

「おいら、イヤっす〜…」

「俺もやだよ!」

「あっ!」

鼓が、急に大きな声を上げた。

「なんだ!」

「いい考えがあるっす!」

「ほぉ?」

「こんな部屋は見捨てて、とりあえず温泉でマッタリと…」

「お、いいねぇ♪」

「でしょ〜?」

健介は満面の笑みで鼓にゲンコツを落とした。

「いくぞ鼓、これも一人前への道だ」

「はいっす…」

二人はしぶしぶ、部屋の隅に水槽を寄せ始めた。

害虫と言っても水槽越しだから、中を見なければ普通の荷物と変わらない。たぶん。

「鼓、落としたり倒したりしないように気をつけろよ?」

「はーい…」

その時、鼓の足が水槽に引っ掛かった。
ゴトンッ!と、水槽が倒れた。

「言ってるそばから倒すな!!」

「あうー!ごめんっす!」

健介が、倒れた水槽に手を延ばそうとしたその時だった。

ずるっ

と、思わず健介の足が滑った。

「うぁ…」

「健兄ぃっ!」

水槽の密集する床に、頭からダイブした。

どんがらがっしゃーーん!!

「うわーっ!!」

割れた水槽さえなかったものの、いくつもの水槽が弾け飛んだ。



「健兄ぃのバカぁ!」

「ふ、フタ開いたりしてないよな!?」

「えっと…」

鼓が足元を見ると、裸足の上を黒い影がサッと走って行った。

「うひっ…!」

全身に寒気が走った。
見ると、一つの水槽のフタが若干開いている。

「健兄ぃ、今、すんごくイヤなものが…」

「えっ…」

健介もその存在に気付いた。
床を走り抜ける、黒光りするその姿。
お茶の間に現れる度に黄色い歓声が上がるナイスな奴。

その名は、ゴキブリ。

「こんなものまで持ち込んでたのか…」

「健兄ぃ、捕まえなきゃ!」

「あ、ああ!」

ゴキブリは部屋の壁をスルスルと這い、健介の近くまでやってきた。

「健兄ぃ、チャンスっす!」

「よーし!」

健介はゴキブリに勢い良く手を伸ばし……引っ込めた。

「ってこんなもん触れるかぁっ!!」

「むうっ、健兄ぃには度胸や勇気ってもんがないんすか!」

「おまえに言われたかないわ!」

「と、くだらない言い争いをしてる間にゴキブリくんの姿を見失ってしまったっす!」

「あちゃ…」

「…きっと、大丈夫っすよ…ゴキブリ一匹ぐらい、どこにでもいるし…」

「そういうことにしておこうか…」

二人は大きくため息をついた。
結局、部屋の掃除が終わったのは、それから三時間後だった。


やがて夜になり、八木沼が大量の虫かごを抱えて帰ってきた。

「おかえりなさいませっす〜」

「やぁやぁ、今朝言い忘れたんだけどね、あんな部屋だし、掃除してくれなくて良かったんだけど…」

「うぇっ!!」

「そういうオチっすか…」

脱力する二人の気も知らず、八木沼は部屋に戻っていった。
そして数分後、再び受付に飛び込んできた。

「ききき、君たちぃっ!」

「ふぁ?」

「ワシのチャッピーが見当たらないんだが…知らないかね!?」

「ちゃっぴぃ?」

「ほら、小さくて黒くてかわいい…いつも連れて歩いてるワシの相棒のゴキブリなんだが…」

「!!」

鼓と健介が互いの顔を見つめた。

「あれ、ペットだったんすか…」

「その、実は掃除に入った時にですね…」

「このバカイヌがあぁぁぁっ!!」

「キュ〜ン…」

「ほら健兄ぃ、早く探しにいくっすよ!…あ、おいらはその間にお食事の準備を〜♪」

「ちくしょー、ゴキブリなんかどうやって探せってんだよ〜…」

「ん?」

仕方なくトボトボと歩き出した健介の背中に、鼓が何かを見つけた。

「健兄ぃ、背中に何か付いてるっす…」

「ん?」

振り返った健介の鼻先に、黒光りする何かがカサッと移動した。

「ぎゃ!」

「げっ、健兄ぃ…」

「チャッピーー!そんなところにー!!」

八木沼さんが、健兄ぃ…の鼻先のチャッピーに抱きついた。
健介の首に八木沼の全体重がかかり…

…グキッ

「ぎゃあぁっ!!」

鼓は八木沼とチャッピーの感動の再会に水を挿さぬよう(かどうかは知らないが)、そっとその場を離れた。

「いろんなお客さんが来るっすよねぇ、ホント…」

まだまだ、一人前には程遠い鼓であった。


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