二章「腹鼓」
ポンッ…ポポンッ…♪
満月の夜、その小気味良い音は軽妙なリズムを刻んでいた。
温泉宿・楽運荘の名物でもある、大露天風呂に入浴している客たちは、その音に心地良さそうに耳を傾けていた。
ポンッポポコポンッ♪
音を発しているのは楽器ではない。
一人のタヌキ族の少年の、丸々と太ったお腹である。
その子ダヌキは、湯舟を囲う岩に腰掛け、膝から下だけを湯に浸けて、自らのお腹を叩いていた。
その手が腹に触れる度、太鼓に似た音色が響き渡る。
タヌキ族だけに古くから伝わるその音色は、『腹鼓』といった。
「こんな珍しいものがこの歳になって直に見れるなんてなぁ…」
一人の老紳士が呟いた。
「前に聴いたのは何十年か前だよ…」
「それもこんな若い子がねぇ」
もう一人の紳士が、感心し聞き惚れていた。
腹鼓の奏者は、『腹鼓師』と呼ばれている。
だがその腹鼓はタヌキなら誰でも打てるものではなく、血筋や素質に大きく依存するもので、その数は減る一方であった。
現在では世界規模で見ても125人、それも20代や10代の若者はほんの数名しかいない。
「えへへっ、まだまだ修業中の身っすよ♪」
タヌキの少年は照れながらも嬉しそうに腹鼓を打っていた。
その名は、彼が一流の腹鼓師となることを願い、こう名付けられていた。
鼓、と。
「温泉は気持ちいいし、こんな素晴らしい音は聞けるし、わしゃもうこの場で死んでも構わんよ〜」
誰かが言ったその言葉に笑いが起こる。
「ダメっすよ、じ〜ちゃん!」
鼓がピシッと言った。
ポンポコポポンッ♪
「まだまだ長生きして、おいらが一人前になった時にまた聴いてもらわないと!」
「ハハハッ、こりゃまだしばらくは長生きする楽しみができたなぁ」
「簡単に死ぬとか言わないでくだせぇっすよぉ〜♪ずっと健康で長生きしてくださいっす!・・・あ、そ〜れ!」
ポポポポポッ、ポンッ、ポコポンッ!
鼓は、満足そうに叩き切った。
大きな拍手が起こった。
壁一つ挟んだ女湯からも拍手と歓声が聞こえてくる。
「今度はこっちにも叩きに来てね〜!」
と、女性の明るい声が聞こえる。
「たははっ、さすがに女湯までは行けないっすよ〜!」
「いいじゃない、可愛がってあげるわよ〜っ!」
「うへぇ、勘弁してくださいっす〜!」
壁を挟んでそんなやり取りをしながら、鼓はゆっくりと風呂に漬かった。
途端にお客さんたちが群がってくる。
年はいくつだとか、どこの生まれだとか、まるでお茶の間の有名人だ。
頭を撫でられ、お腹を揉まれ、もみくちゃにされながらも、幸せな一時である。
「おい鼓・・・」
ふと、背後から声が聞こえた。
ゾクッ!
と全身の毛が逆立った。
「てんめぇ…仕事サボってどこに行きやがったのかと思ったら、やっぱりここかっ!!」
恐る恐る振り向くと、まるで鬼のような形相で健介が仁王立ちとなっていた。
いつものことだ。
特別風呂好きな鼓は、いつも仕事中に暇な時を見計らって、こっそり温泉に入っている。
最初は女将さんも怒っていたのだが、懲りずに何度でも同じことをする鼓には何を言っても無駄だと悟ったらしい。
かと言って黙って放っておくわけにもいかないので、毎回こうして健介が叱りに来ることになっていた。
「あ、あの…健兄ぃ…これは…」
「たしか今日は俺とおまえで宴会場の片付けのはずだったよな…?」
「うっ…」
「俺の記憶違いか?どーなんだ?あぁん?」
「ご…ごめんなさいっす〜…」
ぐりぐりと頭を小突かれ、鼓はしょんぼりと謝った。
「まぁまぁ、おかげでわしらも楽しませてもらったし、ここは許してやってもいいんじゃないかね?」
そーだそーだ、と、お客さんたちから声が上がる。
健介は頭を抑えた。
「そう言いますけどねおじーちゃん。こいつのこの『ご、ごめんなさいっす〜…』っての、何十回目になるか…うぅ…」
「健兄ぃも大変っすねぇ」
「おまえのせいだろーがっ!」
怒鳴りつける際、ふと鼓と目が合った。
「うっ…」
「どーしたっすか?」
…かわいいなコンチクショウっ!!
湯舟に浸かりながら、上目使いで見つめてくる鼓を見ていたら、怒鳴る気力も失せてしまった。
…俺、まんまとこいつのペースにハメられてるだけじゃん…うぅ。
今度から女将さんに叱りにきてもらうか…あ、でもここ男湯だからマズイよな…
畜生、反則だ!
こうなったら、こうなったら……
悩み抜いた末、健介は一つの決断を下した。
「今日のとこはカンベンしといてやらぁ!湯冷めすんなよ!!」
アホかオレは!!
この「カンベンしといてやらぁ!!」も、何十回言ったかわからなかった…
「ありがとっす〜♪」
湯から先を出した、鼓の大きなしっぽがフリフリと楽しげに揺れていた。
ポンッ♪
また一つ、月夜に鼓が響いた。