一章「白雪」

一月三日。
その日は朝から大雪に見舞われていた。

一台の軽自動車が、曲がりくねった山道を下っていた。
運転しているのは30代前半のタヌキ族の男性。
助手席には雪のように白く長い毛並みが美しい、イヌ族の妻。
その胸にしがみつきながら、二日前に5歳の誕生日を迎えたばかりの息子がすやすやと寝息を立てていた。

「しかしまいったっすねぇ」

注意深くハンドルを切りながら、父親である男性が呟いた。

「こんなに吹雪いてくるなんて思ってなかったっす…」

「だから言ったじゃない、無理しないでもう一泊させてもらいましょうって。」

ややキツめの口調で妻が言った。

「しかし〜…今日中に帰らないと、おれ明日から仕事が…」

「雪で帰れないんだから仕方ないじゃない…」

この一家は、年末年始の休暇を利用して温泉旅行に行った帰り道だった。
一家と交流のあった温泉宿・楽運荘は、彼等の住む青草町から山を二つ越えた場所にあった。
普段なら車で三時間程度で行き来できる距離なのだが、この日は雪で路面も視界も悪く、宿を出てからすでに5時間が経過していた。
妻と親しかった旅館の女将が、雪を警戒してもう一泊させてくれると言ってくれたのを、変に気の弱い夫が断ってしまったのだ。

「何も知らない仲じゃないんだし、あそこで遠慮しなくても…」

「そう言うっすけどね、おれだって…」

言い返そうとしたその時だった。
妻の胸に顔を埋めていた子だぬきが不意に目を覚ました。

「あら鼓、起きちゃった?」

「・・・父ちゃん、まだおうちつかないの〜?」

眠そうに目をこすりながらそう言う子供、鼓の頭を、母親がそっと撫でた。

「ふふ、もうすぐよ」

「うわあ」

母の腕に抱かれながら、鼓が窓の外に目をやった。

「すごい、まっしろだ!」

「鼓はこんな大雪、見たことないもんなぁ」

「雪でできてるの、これ!?」

五歳になったばかりの鼓は、目の前に広がる白い世界に目を輝かせていた。

「父ちゃん、帰ったら雪だるま作ろうよ!」

「あぁ、いいっすね♪」

「やくそくだよ!」

「とびっきり大きいの作ろうな♪」

「うん!」

楽しそうに言葉を交わす父子の横で、母が何かに気付いた。

「・・・ん?」

・・・コツン。

何か聞こえた。

母は注意深く耳を立て、窓の外を見渡した。

・・・コツン。

車の屋根に、何かが当たっている音だ。
ただし、下手をすると聞き逃してしまいそうなほどに小さい音だ。

「どーしたっすか?」

「あ、いえ・・・気のせいね」

「ふふん、帰ったらキミのお雑煮が食べたいなっと♪」

父が大きなお腹を叩くと、ポンッと小気味良い音が響いた。

「はいはい、お腹鳴らしてないで前見て運転してください」

その時の音が、いくつかの雪の塊が車の上にぶつかっている音だと気付いていれば、この後に起こる事態を回避できていたかも知れなかった。

細い山道を走る車の真上に、降り積もった巨大な雪の塊があった。
その重圧から少しずつ位置をずらしながら、まるで下の道を走る車を狙うように。

「そういえば、鼓に誕生日のお祝い、まだ渡してなかったっすね」

「え?おもちゃもらったよ?」

そう言って後部座席を指差した。
大きな袋の中に、前から欲しがっていた「DX超合金シガラキング」が入っている。
ちびっ子に大人気の特撮ヒーロー番組「居酒屋戦隊タヌキンジャー」で、五人のヒーローが操る巨大ロボの玩具だ。


「いや、それじゃなくてな、母ちゃん、おれのカバンに入れてあるの出して〜」

「はい」

母が足元に置いてあるカバンの中から、小さな木札を取り出した。

小さな木の板に、一文字「鼓」と彫られている。

「なにこれ?」

子供が首を傾げた。

「タヌキ族のお守りみたいなもんっす」

そう言って、父が胸元から片手で自分の木札を取り出した。
こちらには「鳴樹」と、父の名が彫られている。

「タヌキがみんな持ってるわけじゃないんすよ。これを持つのは、腹鼓を叩けるタヌキだけっす」

「はらつづみ?」

「ほら、お父さんがお腹を叩くと、すごい音がするでしょう?」

「自分のお腹を太鼓にして音楽を奏でる、タヌキ族に昔から伝わる芸っすよ」

父がよく宴会やお祭りでお腹を叩いて人を喜ばせている姿は何度も見たことがある。
父の腹鼓が鳴ると、お祭りの中で行き交う人々も一斉に足を止めるほどの腕前を持つ、父は数少ない優秀な腹鼓師だった。

「でもおいら、それできないよ・・・」

鼓は試しに自分のお腹を叩いてみたが、気の抜けたような音しか返ってこない。

「できるさ、おれが教えてやるっすから♪」

「じゃあ、それもやくそくだよ!」

「鼓ならきっといい腹鼓を打てるっすよ♪」

「うん!」

鼓の無邪気な笑顔に、父が片手で自分のお腹をポンと叩いてみせた。

この一瞬、ハンドルから片手を離さずに注意深く運転していれば、あるいはこの家族の運命は変わっていたのかもしれない。

ほんの、一瞬の出来事だった。
山の斜面を、巨大な白い雪の塊が流れ落ちて行った。
一家の乗る車を目指すように。
車の中の三人の視界が突如として真っ白に染まったかと思うと、同時に激しい衝撃が襲ってきた。
悲鳴をあげる隙さえなかった。
豪雪の波はあっという間に車を飲み込み、車道脇のガードレールをも破壊していった。
雪に埋もれながら、車はどこまでも墜ちていった。

母が鼓をぎゅっと抱きしめ、咄嗟に父が二人を衝撃からかばうべく覆いかぶさった。

大丈夫っすよ

と、鼓に笑顔を見せた。

鼓は果てしない白い衝撃の中、確かに聞いた。

ドクン・・・

自分の小さな身体を包んだ両親の命の鼓動を。

やがて何もかも、白い闇に閉ざされていった・・・

ほんの一瞬の出来事が、永遠に感じられた。


「・・・っ!!」

鼓が、声にならない悲鳴をあげ、ベッドから飛び起きた。
それから13年が過ぎていた。
鼓は、背丈は小柄だが、父に負けない程の張りを備えた立派な腹の持ち主に成長していた。

だがいつまでも頭の中から消えないこの悪夢に、18になった鼓は頭を抱えた。
全身に冷汗をかいている。だいぶ長い時間うなされていたのだろう。

「・・・この夢もいい加減飽きたっすよ・・・」



ふと壁にかかった時計を見ると、まだ午前4時だ。

ここは温泉宿・楽運荘の社員寮で、鼓はその一室に先輩であるイヌ族の青年、乾健介と暮らしていた。
健介は楽運荘で働き始めて三年で、鼓が高校に通っている頃から兄弟のように親しい仲となっていた。

「・・・つづみぃ」

「んっ」

二段ベッドの下側で寝ていた健介の声が聞こえた。

「大丈夫か?またいつもの夢見てただろ・・・」

「えへへ、もう慣れっこっすよ、こんなの」

「ウソつけっ」

あの事故で助かったのは鼓だけだった。
天涯孤独となった鼓は楽運荘の女将に引き取られ、今まで暮らしてきた。
先日、高校を卒業した鼓は、自ら楽運荘で働きたいと申し出、この寮で他の従業員同様の生活をするようになった。
健介と鼓が同じ部屋で暮らすようになってからまだ二ヵ月しか経っていないが、健介は幾度となく鼓が悪夢にうなされる声を聞いていた。
大丈夫であるはずがない。

「そんなことより、起こしちゃったみたいでごめんっす・・・」

鼓は言いながら、ベッドの梯子を降りて健介の顔を覗いた。

「心配で寝てらんないって・・・」

「あぅ・・・おいらがこんな夢見たせいで・・・ホント、ごめんなさいっす〜・・・」

しょんぼりと頭を下げた。

「いやっ、謝るとこじゃないから!夢なんか見ようとして見れるもんでもないだろ!?」

鼓はすぐに自分のせいにしてしまうところがある。
健介が三年前に酔ったお客さんとトラブルを起こし、女将から厳しく叱られた時も、見ているだけでトラブルを起こす前に止めに入れなかった自分を責めて泣いていた。

「・・・そういうとこが可愛いんだけどさ」

「ほへ?」

「なんでもねーよ」

頬を赤らめ、顔を反らした。
鼓はお気に入りのリストバンドを身につけ、トレードマークの赤いバンダナを頭に巻きながら健介に聞いた。

「健兄ぃ、寝直すっすか?」

「いや、あと一時間ぐらいだし。このまま起きてるよ」

「良かったら、一緒に朝風呂でもどーっす?」

「んぉっ、いいねぇ♪」

健介はベッドから機嫌よく飛び起き…る時に思いっきり上段ベッドに頭をぶつけた。

「いだぁっ!」

「健兄ぃ、かっこわるっ!」

「うるへ〜」

涙目の健介の手元に、手ぬぐいとバスタオルが投げ渡された。

「行こ♪」

元気に差し出された鼓の柔らかな手を握り、健介は思った。

こいつが一人で風呂に行かない時は、一人になりたくない時だ。
きっと鼓はいつも、独りになってしまった自分と戦ってるんだと思う。

「なぁ鼓」

「うん?」

「その、オレ・・・」

「何すか♪急に赤くなっちゃって」

「おまえが・・・す、す・・・」

「す?」

「す・・・スタバでコーヒー飲みたいね!!今度!!!」

「むはっ」

・・・・・・・・・今日も言えなかった・・・・・・・・・

「そんな、改めて言われると照れちゃうっすよ・・・」

「待て、そこで照れるな!」

「にゃはは、けんにぃ♪」

「あわわっ」

鼓が頬を擦り寄せてきた。

「つ、つづみっ・・・だ、だめ・・・」

「けんにぃ・・・」

「え・・・?」

健介の顔に、冷たいものが伝った。
鼓の目に、涙が溢れている。

「おいら・・・おいらっ・・・」

健介はハッとした。
いつも鼓は、こうやってどこかで一人で泣いているんだろう。

「だから無理すんなっての・・・」

そっと、包み込むように抱きしめた。
冷たい雪から両親が命懸けで守った鼓の温もりだった。
現在、6月。
春の暖かさに満ちても、きっとまだ鼓の心はあの日の雪の中にあるのだろう。

鼓を、今度はオレが救いたい。

健介は、強く強く鼓を抱きしめた。


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