十七章「奇跡」

「…何やってんだよ…こんな…違うだろ、鼓……」

健介は、ゆっくりと鼓に歩み寄った。

「止めろ。こんな腹鼓を打つために、ここまで来たんじゃないだろ…」

「母ちゃん…母ちゃんっ……」

鼓はうわ言のようにそう繰り返していた。
もはや、健介の言葉は耳に届いていなかった。

「…止めろってんだよ!!」

健介の手が鼓の腕を掴み、これ以上の腹鼓を止めようとした。

「!?」

鼓の腕が、まるで岩のように重い。
何かに取り憑かれたかのように、鼓の手は叩くことを止めなかった。

「……鼓…」

「私がいけないんです…」

桜が、悲しげに呟いた。

「この子の苦しみを、まるで理解していなかったから…」

「違います」

「え…?」

「こいつは…鼓は、そんなに弱くない」

健介は、鼓の肩を掴むと、鼓の虚ろな目に強い視線をぶつけた。

「おまえの腹鼓は、人を悲しませるためのものじゃないだろ…!!
母さんを泣かせるために、ここまで来たのか!?」

「……」

「何、凹んだツラしてやがんだよ…おまえ、何のために腹鼓叩いてるんだよ…!!」

鼓は、健介の視線から目を反らそうとした。

だが、食らい付くように健介は顔を近づける。

「逃げんじゃねえ!!」

「…!!」

健介の怒声に、鼓はようやく腹鼓を叩く手を止めた。

「健…」

「健介、だ」

「おいら…」

鼓は、周囲の空気の異変に気付くと、その凄惨さに恐怖した。

「おいらが…これを…?」

「らしいな」

「そんな…」

「おまえ、覚悟決めたんじゃなかったのかよ。少々辛いからってへこたれてんじゃねえ!!」


「だって…」

鼓の大きな瞳から涙が溢れ出す。

腹鼓を打つことを止めても空気が変わることはなかった。

「…鼓、俺が何でおまえを突き放したかわかるか?」

「…はいっす…」

「これからはおまえ一人で、母さん守っていかなきゃいけないんだぞ。
わかってるならこんな暗い空気、吹き飛ばしてみせろっ!!」

「でも…そんなこと言ったって…」

「十三年間、何のためにその腹をポンポコ叩いてきたんだよ!!おまえにとって腹鼓って何だ!?」


「……みんなを……」


言いかけて、顔を伏せた。
今の自分に、その先を言う資格などないと思った。

だがそんな鼓の肩を、健介が支えた。

「みんなを、何だ?」

「楽しませ…」

「母さんの前だ。胸張って言え!」

「…!」

鼓は健介の手を取ると、小さく、だがはっきりと頷いてみせた。

ゆっくりと膝を起こすと、不安げに見つめる桜に向き直った。

「…おいら、腹鼓でみんなを楽しませてきたっすよ。今までも、そしてこれからも」

はっきりと口に出しながら、乱れたお腹の毛を整える。

「例え母ちゃんの記憶が戻らなくても、目が見えなくても、おいらがこの音で絶対に守るっすから…だから、聴いてほしいっす…!」

鼓は、右手を天にかざした。

瞳を閉じ、大きく息を吸う。

右手に意識を集中させ、腹部に向かってふわりと振り下ろす。

 ポンッ…♪

気が、弾けた。
引っ張られるように、左手が風を切る。

 ポポンッ♪

鼓の音が弾む度、重かった空気がうち消されていく。

「鼓…」

桜が、呟いた。
優しい、鼓動だった。

すっと宙を裂く手の動きは、まるで舞い踊るかのようである。
そしてその音が、桜の胸に響く。

「暖かい……」

桜はそっと、光を失った目を閉じた。

身体全体で、その響きを受け止めようとした。

 ポンッ、ポコポンッ♪

「……!?」

桜の中で、鼓の鼓動が弾けたその瞬間−


「…鼓さ、母さんに会ったら、どうするんだ?」

「え?」

「何か話したいこととか、あるんじゃねーの?」

「う〜ん…正直、まだ母ちゃんが生きてるってことすら信じられなくて…
それを確かめて、その後のことはまだ何にも考えてなかったっす」


列車の風景だった。
語り合う二人の姿が、はっきりと桜には見えた。

「これは…」

いや、桜自身もその電車にいた。目の前にいる鼓に、手を延ばせば触れることができそうだ。

桜は、鼓の記憶の中にいた。


 …ポンッ…!


「…心配かけてごめんなさいっす。
おいら、女将さんや健兄ぃや、楽運荘のみんなのことが大好きっすよ。
例え何があっても、それは変わらないっす。」


 …ポポンッ、ポンッ!


「おいら、父ちゃんのことをよく知りたくて腹鼓を始めたんすよ。みんなを喜ばせてた父ちゃんが好きなんす」


 ポンッ、ポンッ♪


「いつだって独りじゃないから。いつだって側にいてくれるから。だから一人で頑張ることができるんすよ。
春香ちゃん、ちょっとだけ、自分の力で立ってみないっすか?」

「でも…」

「できるはずっすよ。だっておいらも君も、独りじゃないっすから」


 …ポンッポコポンッ♪


「やっぱ…アレっすかね。今度の仕事、おいらに任せるのは心配っすか?」

「ん…おれは…おまえなら大丈夫って信じてるからよ…」

「へへっ、顔に心配って書いてあるじゃないっすか」


…ポポポンッ♪


「温泉は気持ちいいし、こんな素晴らしい音は聞けるし、わしゃもうこの場で死んでも構わんよ〜」

「ダメっすよ、じ〜ちゃん!まだまだ長生きして、おいらが一人前になった時にまた聴いてもらわないと!」

「ハハハッ、こりゃまだしばらくは長生きする楽しみができたなぁ」


鼓の音色が響く度、桜の中に鼓の記憶が流れ込んでくる。

一瞬の音の中に、桜は鼓の十三年間を見た。

鼓が腹鼓を打った時…
必ず誰かが笑顔になっていた。

鼓が出会ったたくさんの人の笑顔が鼓を支え、その音色が彼らに温もりを与えて来た。

気がつけば桜の周りには、そんな人々の笑顔の記憶が満ちていた。

「こんなに…この子はこんなに沢山の想いに包まれて…」

その想いの終着点が自分だと気付いた時、流れ込む記憶に変化が訪れた。


一面の銀世界。
雪山を走る車に乗った、一家の姿。

「こんなに吹雪いてくるなんて思ってなかったっす…」

「だから言ったじゃない、無理しないでもう一泊させてもらいましょうって」

運転席に座る、タヌキ族の男性に不満を言ったイヌ族の女性は桜だった。
その膝では、五歳になったばかりの鼓が無邪気に甘えている。

「父ちゃん、帰ったら雪だるま作ろうよ!」

「あぁ、いいっすね♪」

「やくそくだよ!」

「とびっきり大きいの作ろうな♪」

「うん!」


約束…

「この…すぐ後に……」

桜は頭を抑えた。

「私……!!」


雪崩の白い闇が、三人の乗った車を襲った瞬間。

桜は、咄嗟に鼓の身体を強く抱きしめ―

「神様……この子だけは……!!」

祈るように、声にならない声で叫んだ。

「……大丈夫っすよ……」

次の瞬間、白い闇の中で桜もはっきりとその声を聞いていた。

「……!!」

雪崩に潰され、ほとんど身動きが取れない車の中。
桜と鼓の体温が下がらないよう、鳴樹は、ずっと二人を包んでいた。

その手が最後の瞬間まで握って離さなかったものは…桜の手だった。

「君に逢えて、良かったっす♪」

精一杯、力を振り絞って、鳴樹は微笑んでいた。

眠りについてからも、ずっと。

彼が最期に発した一言を聞いた、たった一人の存在が自分であることを、桜ははっきりと思い出した。


 ポンッ…♪


「ナ〜ルちゃん♪」

「ぶっ!!」

鼓が、生まれる前のことだ。
鳴樹は証城寺の稽古から抜け出し、密かに交際していたその女性と待ち合わせていた。

その女性と同じ名の、桜の木の下で。

「その呼び方、やめてくだせぇっす〜!」

「なんで?かぁいいじゃない♪」

「かぁいくないっすよぉ!」

「お腹の子も、あなたみたいにかわいい子になるかな?」

「だからかわいくな……!?」

鳴樹の顔が固まった。

「今、なんて…?」

「お腹の子、できちゃいましたぁ…♪」

「……まじっすか」

「まじまじ♪」

愛嬌の溢れる顔で笑う桜を前に、鳴樹はしばらく表情すら忘れて硬直していた。

「……………」

「あ、あれ、ナルちゃん…?」

桜の手が恐る恐る、硬直した鳴樹のお腹をツンと突いた。

「…いやったあぁあぁぁぁっすっ!!」

火山の噴火の如き勢いで、鳴樹は全身で喜びを表現した。

嬉し涙を浮かべながら桜の手を取り、オーバーなまでにスキップを繰り返した。

「きゃっ!」

桜が足元の石につまずいたのを、「うぉっと…!」と大きく柔らかなお腹で抱き止める。

「そっかぁ、桜、母ちゃんになるんすねぇ♪」

「何言ってんの、ナルちゃんもお父さんでしょ」

「うお、そうっすよね♪」

鳴樹は腹をポンと鳴らした。

「子供の名前、どうしよっかなぁ」

「桜、気が早いっすね…」

「ふふ♪」

桜は鳴樹の鼻先を押した。

「実はもう決めてあったりするんだよね」

「へ?」

桜は、鳴樹のお腹を指指した。

「……腹?変な名前っすー」

「違うわよバカっ!」

「うぅ?」

首を傾げる鳴樹の腹を、桜の手が叩いた。

ポンッ♪

「あ…!」

鳴樹が目を丸くした。

「わかった?」

「うん♪」

桜咲き、腹鼓が鳴る樹の下で−
一つの命の鼓動が、始まっていた。


「……ちゃん!…ぁちゃん!……母ちゃん!!」

桜は、ゆっくりと目を開けた。

「ん…」

「母ちゃんっ!?」

視界を覆っていた、白い闇が晴れ−
心配そうに覗き込む、タヌキ族の少年の顔が、はっきりとわかった。

「良かった、気がついた…」

その横では、イヌ族の青年が胸を撫で下ろして安堵の息を吐いている。

「おいらの腹鼓聴いてたら急に倒れちゃったから…」

今にも泣き崩れそうなその少年の顔は子供っぽく、鳴樹そっくりだ。

「大丈夫だよ、鼓…」

「えっ……今…」

「大きくなったね…そのバンダナも、お父さんのにそっくり…」

鼓の頭をそっと撫でた。
桜の目から涙が溢れてくる。

「母ちゃん!!」

鼓は、子供のように母の胸に飛び込んでいた。
あの日、雪の中で包んでくれた温もりと同じ暖かさだった。

一つの奇跡が、響いた。


終章「 鼓 」へ

戻る