終章「 鼓 」
健介は独り、桜の部屋を後にしていた。
母と再会し、まるで子供のように母にじゃれつく鼓に気取られぬよう、何も言わずに病室を抜け出して。
良かったな、元気でやれよ。
心の中で、そう呟く。
面と向かって言ってくることができなかったのは、その言葉が意味することに健介自身の気持ちが追い付いていなかったからだ。
鼓が俺の手を離れる時が来た。
母親と出会って、あんなに嬉しそうな顔をする鼓は初めて見た。
静かな商店街を抜け、駅を目指す。
二人で来た道を、一人で。
何もおかしなことはない。
鼓は帰るべき場所を見つけた。
俺は俺の帰る場所に帰る。
それだけのことじゃないか。
商店街のアーケードを出たところで、健介の頬に一滴の雨が落ちる。
ポツリ、ポツリ。
落ちてくるそれは、少しずつ勢いを増し、健介の身体を重く暗く染めていく。
突然の雨から逃れようと、何人もの通行人がすれ違っていく。
だが健介の顔を濡らしていたのが雨だけではないということに、気付く者はいない。
鼓と過ごした日々。
アイツは俺のことを本当の兄のように呼んでくれた。
いや、今までずっと、間違いなく俺と鼓は兄弟だった。
小さな無人駅にたどり着いた健介は、切符の販売機に硬貨を入れる。
ボタンに手を延ばし−指が震えていることに気が付いた。
何を期待してか、後ろを振り向く。
雨、雨。
雨と霧に包まれた町並みはただひたすらに白く、健介の視界を覆うばかりだ。
「じゃあ、な…」
振り切るように、販売機のボタンを押した。
無機質に発券された切符を持って改札口に向かう。
「…兄ぃ…っ!」
「え…?」
何かが聞こえたような気がして、後ろを振り向く。
だが、白い霧の中からは何も見えてはこない。
自分はそこまで未練がましい男だったのかと自嘲し、再び改札口に切符を持った手を向ける。
「……けんっ…にぃっ……!!」
「うぁっ!?」
かすれた声がすぐ側で聞こえたかと思うと、足元にぶつかってきた衝撃にバランスを崩す。
どしん!と大きく尻餅をつく健介の頭上に、手放してしまった切符がひらりと舞い落ちた。
自分の脚にしがみついて離さない、太い腕。
雨の中をずぶ濡れで走ってきたためか、普段はふんわりとした髪もそのボリュームを失い、額の赤いバンダナを隠している。
健介は困惑と驚きの表情を隠せないまま、その名を呼んだ。
「つ…鼓…」
その声に、鼓は怒りと悲しみが混じった顔を上げた。
「何でっすか…!」
「うっ…」
大きな拳を健介の胸元にトンとぶつける。
「なんで黙って行っちゃうんすかぁっ…!!」
「鼓…」
激しく肩で息をする鼓の声はかすれ、小さい。
ずっと自分を呼びながら走ってきたのだろうと気付く。
申し訳なさに苛まれる。
鼓のまっすぐな、曇りのない視線が辛く、思わず目を背けてしまった。
「おまえには…母さんがいるだろ。もう、俺がいなくても…」
「勝手なこと…言わないでほしいっす!!」
「鼓…」
「母ちゃんがいるから健兄ぃはいらない…!?何言ってんすかっ!!」
そう言い切って、げほっ、と咳が漏れる。
「おいら…おいらはっ…!」
鼓は声にならない声をあげ、何度も力のない両拳を健介の胸元に打ち付ける。
最低だ、と健介は自分を責めた。
顔をグシャグシャにしてまで怒りをぶつけられなければ、鼓の気持ちにさえ気付かなかったのだから。
母と健介、どちらか選べと言われて選ぶ鼓ではないことぐらい、わかっていたはずなのに。
「ごめん…ごめんな……」
そう言って、頭を撫でてやることしかできない。
鼓の育ての親である女将、腹鼓師として鼓を導いていける証城寺。
何よりも鼓の母親である桜に比べて、ただの同居人に過ぎない健介は、彼等に引け目を感じていた。
だから、自分がいなくても鼓は平気だと思い込み、逃げ出したに過ぎない。
こんな自分でも、鼓の生きる世界の一部だということを忘れてしまっていた。
健介は鼓の小さな身体を抱き寄せた。
人気のない駅で、霧が二人を隠す。
鼓の手が、健介の身体をぎゅっと抱き返してくる。
強く、強く。
「健兄ぃ…健兄ぃっ…!」
何もはばからずに泣き付いてくる鼓が、たまらなく愛おしく思えた。
ごめん。ありがとう。
この二つの言葉のどちらをかけようか、迷う。
「…鼓」
健介は鼓の耳元に口を近づけ、精一杯の想いを込めてこの言葉を口にした。
「大好きだから…もう、絶対…離さないから…」
激しさを増す雨。
徐々に暗く落ちていく町並み。
……ぐぅぅっ……
「…へ?」
「…う?」
姿勢を戻すと、鼓は健介の、健介は鼓の腹を見つめた。
「健兄ぃ、」
「鼓、」
「お腹空いたっすか?」
「お腹空いた?」
ずぶ濡れの二人は互いに顔を見合わせ、笑った。
翌日の清涼院では、桜と鼓、馬場がテーブルを囲んでいた。
「でもあなたたち、本当にいいの?」
「ええ。私もこの子にばかり甘えてられないもの」
「母ちゃんなら、もう大丈夫っすから」
はぁ、と馬場が溜息を漏らす。
「結構ドライなのかしらねぇ、今時の親子って」
「そうかしら?」
「そうっすか?」
話の中心となっていたのは、退院後の桜の行く末だった。
馬場としては、退院後のフォローを実子である鼓に頼みたいということだったが、桜はそれを拒み、できれば清涼院や周辺施設で働かせてはもらえないかと切り出した。
「だって、せっかく十三年ぶりに会えたんでしょ?もっと一緒にいたっていいじゃない…」
「やぁねぇ。アタシも鼓も子供じゃないんだから」
桜は明るく笑い、鼓の肩を叩いた。
「それに、この子の夢の邪魔、できないし」
「母ちゃん?」
「お父さんの分まで、頑張ってくれなきゃね」
「…はいっす♪」
馬場は仕方なさそうに頷くと、その申し出を承諾した。
「健兄ぃ」
鼓は部屋の外に出ると、そわそわと落ち着かない様子でベンチに座って待っていた健介に声をかけた。
「おう、どうだって?」
健介のその問いに、鼓は笑顔で頷いて答える。
「そっか…」
「鼓を、これからもよろしくお願いしますね」
鼓に続いて出てきた桜が、健介に優しく微笑む。
「はい…!」
健介は桜に、深く頭を下げた。
結局、この日の夕方には鼓と健介は楽運荘に帰ることとなった。
一晩しか母親と話すことができなかった鼓を気遣い、もう一泊してはどうかと勧めた健介だが、鼓はそれを断った。
「一緒に過ごした時間の長さの問題でもないっすから」と答える鼓だったが、その瞳はどこか寂しそうでもあった。
だが、それが鼓の選んだ答えなら−
健介は鼓の頭をそっと撫でた。
「じゃ、帰るか。俺たちの楽運荘に!」
「…はいっす♪」
清涼院の門を出る二人を、桜が手を振って見送る。
少し進んだところで、名残惜しそうに振り返った鼓と桜の目が合う。
「母ちゃん…」
その名を口にすると同時に、大粒の涙が溢れ出す。
咄嗟に顔を背ける鼓の背中に、健介の手が優しく添えられる。
「…やーっぱ強がってんじゃねぇか」
「う…」
「もう、俺の前で強がったりすんなよ」
「…へ、平気っすよぉ」
そう言って、拳でぐしぐしと涙を拭うと、遠くでずっとこちらを見つめている桜に再び向き直る。
「おいら、頑張るっすから♪」
右手を振り上げ、暖かい気持ちを込め…静かに振り下ろす。
…ポンッ…♪
軽く響いたその音は、はっきりと桜の胸に届いた。
鼓は満足そうに微笑むと、健介の手を握る。
「行こう、健兄ぃ!」
「…おう!」
大きなしっぽを揺らして走り出す鼓の行く道は、煌めく太陽に照らされている。
暗く冷たい雪に埋もれていた過去を自分の力で切り拓いた少年は、新たな一歩を踏み出した。
腹鼓師、楽運荘、どんな肩書きにももう縛られはしない。
彼の名は鼓。
打ち鳴らし、響かせるもの。
温泉宿 楽運荘物語
新章へと、続く。