十六章「絶望」
「ごめんなさい…」
桜には、ただ謝ることしかできなかった。
自分のせいで目の前にいる少年が深く傷ついていることはわかる。
それが自分の息子だということも、知識としては知っている。
だが、一切の記憶を持たない桜には、いったい彼とどのように接したら良いかわからなかった。
「ねぇ…」
桜は戸惑いつつも、鼓の小さく震える肩に手を置いた。
「私や貴方のこと、教えて?思い出せるよう、頑張ってみるから」
「母ちゃん…」
鼓はハッと思い立った。
一つ、試す価値があるものがある。
父が、かつて町の祭りや宴の席で好んで叩いていた曲がある。
そのリズムや音域はおぼろげながら記憶に残っている。
鼓は立ち上がると、服を脱ぎ捨てた。
「父ちゃんが、好きだった曲っす…おいらの腕で打てるかどうかわからないけど…」
鼓は、自らの腹にそっと手を添えた。
ポンッ……♪
建物の中から響いて来たその音色に、外のベンチに座っていた健介は耳を立てた。
「鼓の…」
流れてくる腹鼓の調べは軽妙で、楽しげなものだった。
だが、なぜかその一つ一つの音は物悲しくも聞こえる。
健介の胸に届くたび、悲しい気持ちが呼び起こされそうになる。
「なんだこれ…何やってんだよアイツ…」
鼓は焦っていた。
母への強い悲しみの想いが、彼の腹鼓の音色を濁らせてしまっていた。
「母ちゃん…母ちゃんっ……!!」
苦しげに顔を歪めて叩く腹鼓の音色。
桜は必死に耳を傾けたが、記憶が呼び起こされるばかりか、伝わってくるのは鼓の深い悲しみだけだった。
叩けど叩けど、母の様子には何の変化もない。
一層の焦りや不安が、腹鼓を黒く染めていた。
そして、異変は起こった。
「…!?」
部屋の外にいた馬場は、空気の急激な変化を感じた。
「何、これ……」
激しい目眩に襲われた彼女は、思わずその場に膝を落とした。
廊下に飾ってあった花は急速に枯れ、息苦しさはますます強くなる。
馬場だけではない。
清涼院に居た、ほとんどの人は鼓の叩く腹鼓が聴こえる位置にいた。
馬場と同じように空気の重さに苦しむ者や、音色に込められた悲しみに感化され、理由もなく泣き出す者など、腹鼓が与えた影響は人それぞれだった。
中の様子の変化は、健介にも一目でわかった。
「鼓…!」
思わず中に駆け込んだが、あまりの空気の重さに意識が薄れそうになる。
「ぐっ…!!」
先程まで静かで穏やかだった建物が、鼓の腹鼓が鳴り出してからはまるで地獄絵図だ。
「まさか、あいつの腹鼓のせいなのか…!?」
直感的に察した健介は、音が聞こえてくる方角に走った。
「儂は十三年前、この腹鼓で鼓の母親の記憶を取り戻せないか、試したことがあった」
証城寺と女将の話は続いていた。
「だが、儂の力では救えなかった。鷲がいかに気を込めようが彼女に届くことはなかった。」
「それで、腹鼓で人を幸せになどできないと…?」
「考えてもみろ。人の幸せほど抽象的なものはない。例えば貴女にとって幸せとは何だ?
金があることか。健康であることか。
例え一つの欲望を叶えて幸せになっても、人はまた果てる事なく欲望を生み出す。
つまり幸せとは、醜い欲望そのものだ」
「鼓が聞いたら、悲しむでしょうね。
あの子はいつだって、自分よりも他人の幸せを願うことができる子だったわ」
「鼓も知ることになる。儂の腹鼓で治せないものが、あの子に治せるものか…」
「それは貴方が、桜さんを心のどこかで憎んでいたからではないの?」
「憎んでいた、だと?」
「貴方にしてみれば、桜さんは自分から鳴樹さんを奪った相手では?」
「…鳴樹が、儂ではなく桜を選んだというだけのことだ」
そう呟いて、証城寺はふと思った。
「猫柳さん、貴女はどう思う?」
「え?」
「健介とか言ったな。儂には彼が他人には思えん。鼓は、母とあの青年のどちらを選ぶと思う?」
「…貴方の好きな神様にでも聞いてみることね」
「ふむ…」
鼓の未来は、鼓にしか決められない。
ここで証城寺といくら話したところで、わかるはずもないのだ。
女将はすっと立ち上がると、証城寺に告げた。
「私、そろそろ楽運荘に帰ります」
「鼓は戻ってこんかもしれんぞ」
「いいのよ、それならそれで。あの子自身が本当に幸せになれる道を選んでくれたらいい…」
「そうか…」
証城寺は自らの誤解を悔いた。
鼓を商売道具として利用しようとするなど、この女性の覚悟からは考えられない。
この女将も、健介も、本当に鼓のことを愛している。
「儂は貴女を少し買いかぶっていたようだな」
「え?」
「今度、息抜きに泊まりに行かせていただこう。久々に美味い酒が飲みたい」
「証城寺さん、貴方は…」
「鼓のことは諦めたわけではない。だが、願わくば…」
「願わくば…?」
「彼の未来に、幸多からんことを…」
「…いつでも、来て下さい。健介のしかめっ面が目に浮かびますけどね」
女将は安心したように顔を緩めると、深々とお辞儀をして部屋を後にした。
証城寺はふっと息を吐き、空を見上げた。
決して破ってはならない掟が、この世にはある。
それは、時の流れ。
春に命生まれ、
夏に栄え、
秋に実り、
冬に散る。
その掟を乱すものとなった時点で、本来の腹鼓の力は歴史から消え行く存在となったのかもしれない。
(鼓よ、父より受け継いだその音色を、おまえはどう使う…?)
「馬場先生!?」
健介が走った先で、馬場が苦しげに横たわっていた。
「大丈夫ですか!?」
慌てて抱き起こしたが、どうやらこの音の影響をまともに受けてしまったらしく、意識が朦朧としている。
「…小田貫くんを…」
苦しげに指差した先の一室から、この息苦しさの元凶となっている音色が響いている。
「あそこに…」
健介は馬場を抱き起こすと、手近なベンチまで運んで横にならせた。
「あのバカ…」
健介はすぐに踵を返し、鼓がいる部屋の扉を開けた。
「……!!」
健介は、その光景に息を飲んだ。
「鼓…」
鼓が叩き続けている腹の毛はボロボロに乱れ、その表情からは哀しみや苦しみしか伝わってこない。
そして、もう一人−
鼓の母、桜はただ黙ってその音色に耳を傾けていた。
鼓の悲しみや苦しみを、一身に引き受けようとしていた。
それが、記憶を失ったとは言え、我が子を十三年間も悲しみの淵に追い込んだ親としての責任であると信じて。