十五章「距離」

「あなたが…小田貫くんですね?」

待合室で待つように看護婦に言われた鼓と健介の前に、一人のウマ族の女医がやって来た。
年齢は四十代半ばといった所だろう。
聡明そうな顔立ちが凛々しい。

「あ…はいっす!」

「私は、あなたのお母さんの主治医の馬場と言います。十三年間、ずっと彼女を診てきました」

「十三年…」

鼓が不安そうに呟いた。

「あの…おいら、会えるんすか?母ちゃんに…」

「大丈夫ですよ」

馬場は優しく微笑んでみせた。

「彼女は元気ですから。ただし、会われる前に少し、私から話しておかなきゃいけないことがあるんです」

「え?」

馬場は、小さいテーブルを挟んで鼓の前に腰掛けた。

「…小田貫くん、あなた、お母さんのことはよく覚えてますか?」

「正直なところ、記憶は途切れ途切れっす…」

「そう…」

馬場は答えに困ったかのように、しばらく口を閉ざした。

「何でっすか?」

「…小田貫くん、あなたに辛いことを言わなくちゃいけません。だから、覚悟を決めてほしいんです」

「覚悟…」

馬場の強い口調に、思わず視線を反らした。
二人から離れた場所で、ただ黙って話を聞いていた健介と目が合った。

自然と、健介に助けを求めてしまった鼓の視線に対し、健介は首を横に振った。
自分が助けられる話ではない、と鼓に伝えたかった。

「…わかりました。聞かせてくださいっす」

後には引けない。
意を決した鼓は、再び馬場と目を合わせた。

「結論を言うと」

馬場は軽く息を吐くと、出来る限り平静を保った口調で、事実だけを伝えた。

「あなたのお母さんに、あなたの姿は見えません。
それに…あなたのことは、何もわからないと思います…」

「え…?」

「原因不明の失明に加え、事故のショックによる過度な記憶の混乱。つまり、記憶喪失です」

「ちょ、ちょっと待ってくださいっす!」

思わず、身を乗り出していた。

「じゃあ、母ちゃん何も覚えてないんすか?おいらのことも、父ちゃんのことも!」

「最初の数年間はまともに喋ることさえできなかったんです。彼女には、事故が起こる前の記憶が一切…」

「そんな…」

鼓は放心したように、再び椅子に腰を落とした。

「それで、ずっとここに入院を?」

聞いたのは健介だった。

「いえ、今は併設してる施設で療養してもらっています。今では明るさも取り戻して、元気にやってますよ」

「おいら、どんな顔で会えばいいんすか…」

馬場は少し考えて、答えた。

「普通に会えば、いいんじゃないでしょうか」

「え…?」

「難しく考えなくてもいいと思います。あなたは彼女の息子さんです。記憶がなくても、親子の絆は通じるはずです」

「親子の絆…」

「医者としてはナンセンスな意見かもしれませんけどね」

そう言って、クスッと笑ってみせた。

「会うか会わないか、決めるのは貴方ですよ」

「おいら…」

会わない、という選択肢は最初から鼓の中にはなかった。
ただ、いざこの場に来てみると、色々な不安に負けそうになる。

だが…鼓が答えを出すのに、さほど長くはかからなかった。

「…会わせてくださいっす」

そのために、来たのだから。
だが、それを黙って見守っていた健介の顔は曇っていた。
もうすぐ、鼓は自分の手の届かない所に行ってしまうかもしれない。

覚悟の時は迫っていた。


清涼院。
それが、病院と併設している施設の名だった。

様々な事情や障害で、身寄りのない人が生活しているのだという。
日本庭園風の外観は楽運荘にも似ており、静かで落ち着いた雰囲気の場所だった。

馬場は鼓と健介を玄関で待たせ、受付で何やら話をしていた。
受付をしているヒツジ族の若い女性が、しきりに鼓の方をチラチラと見ては、驚いたり感心した表情を浮かべている。

目が合った鼓が照れ臭そうに頭を下げると、受付の女性はにっこりと微笑んで手招きをしてみせた。

「健兄ぃ、行こう」

「……いや」

「えっ?」

「俺は、ここで待ってるから」

いつになく、冷淡な口調だった。

「でも…」

「おまえの母さんだろ。俺の出る幕はないよ」

ポン、と鼓の肩を押した。

「でも、ここまで来たんだから一緒に…」

「俺が居なきゃ、恐くて会えないってのか?」

「いや、そんなこと…」

「もし俺がいなかったら、おまえ一人でここまで来れたのか?おまえ、ここに来てから何回俺を頼った?」

鼓には、返す言葉がなかった。

何もわかっていなかった。
何も変わっていなかったのだ。

いつも、さりげなく助けてくれる健介の存在を、当たり前のように思ってしまっていた。

「そんなんで母さんに会ってどうすんだよ…会ったところで何が話せるっていうんだよ」

「健兄ぃ…」

「もう、その名前で呼ぶのもやめろ」

「…!!」

「いつまでも甘えてんじゃねぇ!!」

健介が発した怒声に驚き、馬場が飛び出してきた。

「どうしたの!?」

「いや…何でもないです」

健介は馬場に頭を下げた。

「鼓、おまえだって覚悟決めたんだろ。とっとと行けよ…」

厳しい声でそう言うと、鼓に背を向けた。

「けんに…」

出かかった言葉を、飲み込む。
涙が出そうになった。
だが、堪えた。

健介の本心はわかっているつもりだ。
今度ばかりは、何があっても「健兄ぃ」という存在に逃げてはいけないのだ。

女将がなぜ母親のことを黙っていたのか。
それは鼓が本当の意味で独り立ちできる日が来るのを待っていたからに外ならないはずだ。

両親を失ってからの十三年間、鼓の中でずっと止まっていた何かが動き出す時が来ていた。

「馬場さん、お願いします」

「ええ」

馬場は、その場に残った健介を気にしつつも、鼓を建物の中へと案内した。


清涼院の中、ある一室の扉の前で、馬場は足を止めた。

「小田貫くん」

「…?」

馬場は、扉の横に挿された名札を指さした。

 小田貫 桜

細い線でそう記されていた。

「ここに…」

「私はここで待ちます。心の準備が出来たら、ノックしてドアを開けてください」

「…母ちゃん…」

鼓は大きく深呼吸をした。
足がガクガクと震えている。
呼吸を整えようとすれば、息を止めてしまいそうだ。

こんな時に、背中をさすってくれた健介は、もう側にはいない。

鼓は意を決した。
震える手をそっと延ばし、扉を二回、ノックした。

「…はい?」

少しの間隔の後、中から返ってきた女性の声。

鼓の大きな瞳が揺らいだ。

十三年間、この声だけは忘れたことがない。
会うことを恐れていた気持ちは消え、鼓は反射的にドアを開けていた。

「母ちゃんっ…!!」

扉の向こう、小田貫桜の暮らす部屋があった。

窓際の花瓶の手入れをしていた桜は、その声に手を止めた。

「貴方は…」

「小田貫、鼓っす…」

「…そう、貴方が…」

桜は、不思議と驚いていない様子で、鼓の前に歩み寄って来た。
鼓がいくら母の目を見ても、視線が合うことはない。
母の目は光を失っているのだ。

「母ちゃん、おいらのこと…」

「……」

桜は申し訳なさそうに、首を横に振った。

「そう…っすか…」

「貴方のことは知っていたんだけどね…猫柳さんや、証城寺さんから聞いていたから」

「やっぱり、あの二人もここに…」

「猫柳さんはよく来てくれたの。貴方のことも、よく話してくれたの」

「母ちゃん…」

「そう、私、そんな風に呼ばれてたんだね…」

「父ちゃんもおいらも、そう呼んでたんすよ?」

「そんなことも思い出せないし、貴方がどんな顔をしてるのかもわからない…最低の母親だよね」

「違う!!」

思わず、両手で桜の手を握っていた。

「おいらの体温、わかるっすよね?
あの時、雪の中で母ちゃんと父ちゃんが身を呈して守ってくれたから、今おいらは生きてるんすよ…!!」

「……」

「おいら、ずっとありがとうって言いたかったのに…これじゃ…」

手を握ったまま、鼓は泣き崩れた。

 ・・・
「鼓くん…」

「…!!」

桜が心配そうにかけたその言葉が、逆に鼓の胸をえぐった。

「違う…違うっ……!!」

桜は鼓のことを、自分の息子として見ることができていない。
鼓に対してかけた咄嗟の一言は、他人の子供を心配する時のそれである。

「おいら…母ちゃんの子供っすよ……『鼓』って、『鼓』って……!!」

親子の距離は、実際の距離以上に遠かった。

健介も、女将も、証城寺もいない。
目の前にいるはずの母すら、いない。
鼓は今、独りだった。


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