十四章「鼓動」
「…鼓さ、母さんに会ったら、どうするんだ?」
揺れる列車の中、不意に健介が口を開いた。
窓の外に広がる田園風景をぼんやりと眺めていた鼓は、「え?」と言葉を詰まらせた。
静かなローカル電車の中に、しばし沈黙が訪れた。
「何か話したいこととか、あるんじゃねーの?」
「う〜ん…」
窓の外から目を反らし、腕組みをして視線をさまよわせた。
「正直、まだ母ちゃんが生きてるってことすら信じられなくて…
それを確かめて、その後のことはまだ何にも考えてなかったっす」
「そっか、それもそうだよなぁ…女将さんは何で隠してたんだろ」
「…きっと、事情があったんすよ…」
妙に嫌な予感がしていた。
生きていることを今まで隠さなければいけなかったこと。
母から、今まで一度も連絡がなかったこと。
そして、家の住所ではなく、病院の名前が書かれたメモ。
考えれば考えるほど不安になる気持ちを紛らわそうと、鼓は再び広大な田園の景色に目を向けた。
健介も、大きな不安を感じていた。
もし鼓が、そのまま母親と共に暮らすことを選び、自分の側からいなくなってしまうとしたら…
考えたくもないことだった。
そして、鼓と母親の再会を素直に喜べないかもしれない自分に嫌気が刺した。
鼓のやりたいことをすればいいと言ったのは自分ではないか。
覚悟は、決めておかなければならない。
健介は、いつもより憂いを秘めて見える鼓の横顔をちらりと、だが確実に目に焼き付けた。
『間もなくー、東青草ー、東青草……』
ゆっくりと駅に停まった列車から、二人は足を踏み出した。
それぞれの不安を胸に秘めながら。
「さて、何から話そうかね…」
証城寺と女将が、鼓と健介を送り出した後のこと。
女将を小さな応接間に招き入れた証城寺は、茶を入れながら話を切り出した。
「なぜ、鼓をさらったんです?」
「鼓のためだ」
女将の問いに、証城寺はピシャリと言い切った。
「あの子は腹鼓師だ。あの子の父親の師である儂が引き取って何が悪い」
「何を今さら、そんな勝手なことを…!」
「貴女の宿に居ることで、あの子の腹鼓が間違った方向に向かうのを防ぐためだ」
「何ですって…?」
「貴女も、そして鼓も、何も知らん。腹鼓とは何なのかをな…」
証城寺は部屋の片隅に置かれていた、小さな花瓶を指差した。
「見なさい」
花瓶には、今にも崩れ落ちそうな枯れた花が刺してあった。
「腹鼓が、単に我々狸の一族が腹を叩くことによって奏でられる音楽とお思いかな?」
女将は、首を縦に振るしかなかった。
無理もない。鼓でさえ、どういった仕組みで奏でているか理解しきれていないのだ。
「それならば、腹鼓を奏でることができる狸とできない狸がいることの説明がつかない。
我々、腹鼓師の狸は元来、神に仕える一族なのだよ。」
証城寺は羽織っていた着物を脱ぎ、その大きな腹をあらわにした。
この年齢にして、鼓のそれよりも遥かに張りの強さや重量感がある。
「真の腹鼓をお見せしよう…」
胡座を組み、目を閉じて息を大きく吸う。
ゆっくりと片手を水平に前に出し、握っていた拳を右指から開いてゆく。
「……はっ…!!」
女将の目にはほんの一瞬、証城寺の手首がブレたようにしか映らなかった。
それほどの動作の速さだった。
そして、部屋全体にその高い音色が弾けるように響き渡った。
………ポンッ………
ふっ、と証城寺が息を吐いた。
「えっ…!?」
女将は思わず、腰を上げていた。
証城寺の前に置かれていた花瓶の枯れた花が、美しい桃色の花を咲かせていたのだ。
「そんな…!?」
「わかったかな?腹鼓とは生命の響き。
腹を叩くことで気を擦り合わせ、その摩擦で気が弾ける。
その瞬間に発せられる鼓動なのだ。そして…」
証城寺は花瓶を指差した。
「強い気の響きは、他の生命や気に影響を与える。
枯れた花を咲かせることも、美しい花を枯らすことも可能だ…」
「そんな、それではまるで…」
「言っただろう、儂らは本来、神の使いだと」
女将は言葉を失った。
おとぎ話のような話だ。だが実際にそれは女将の目の前で起こっている。
女将は興奮と畏怖を抑え、口を開いた。
「あなたは、鼓にこれを教えようと…?」
「あの子にはその素質があるはずだ…」
証城寺は、先ほど脱いだ法衣に再び袖を通した。
「でも、それは鼓自身が決めることでは…?」
「…これだけの力があっても、儂には人を救うことも、幸せにすることもできなかった…」
「え?」
証城寺の低い声には、深い哀しみが込められているように思えた。
「儂とて、鳴樹の考えに真っ向から異を唱えた訳ではない。
儂も、他人を救うことができるのではないかと一度は考えた。だが…」
……ドンッ……!!
再び、証城寺は自らの腹を鳴らした。
花瓶の花が、散った。
「…だが…鳴樹の死を止めることなどできなかったではないか……!!」
女将は、証城寺の力にハッと思い立った。
「その力、病気や怪我も治せるんですか?」
「死んでいない限りはな。だが、言っただろう…儂とて、救いたかったと。」
八畳大学総合病院は、駅から歩いて20分ほどの場所にあった。
「ここに、母ちゃんが…」
鼓は、高鳴る胸をぎゅっと押さえた。
呼吸が自然と荒くなっている。
健介が心配げに、鼓の背中をさする。
「落ち着け。焦って間抜けな顔で行くなよ?」
「はいっす…!」
鼓はパンパンと両頬を叩き、不安や迷いを取り払った。
病院の扉をくぐる鼓の背中に、健介も続いた。
「あっ、あのっ!!昨日運び込まれた柴山って奴の病室は!?」
「部長、落ち着け…」
病院の受付窓口では、何やら興奮して喚き立てているタヌキ族の少年を、大柄なクマ族の少年が制止していた。
「何だありゃ」
彼らの様子に、健介が呆れた口調で呟いた。
どうやら病室の場所を聞いたらしいタヌキの少年は、大慌てでドタドタと走ってきて−
どすんっ!!
「あだっ!?」
突如、目の前を阻んだ大きな柔らかいものに、思わずその場に尻餅をついた。
「キミ、病院の中で騒いだり、走ったりしちゃダメっすよ。患者さんにぶつかったりしたらどうするんすかぁ」
少年を止めたお腹をさすりながら、鼓がやんわりと言い聞かせた。
「うっ…」
周りを見て、ようやく冷静になった少年が途端に顔を赤くした。
「ごめん…」
「まったく、バカたぬき。迷惑をかけて、申し訳ないです…」
クマの少年が、律義に頭を深々と下げた。
「いえ、お見舞いっすよね?早く行ってあげてくだせぇ♪」
にっこりと笑う鼓に再び一礼したクマ族の少年に手を引かれ、タヌキ族の少年は
病室へと歩いていった。
同じタヌキが珍しいのか、互いの姿に何度も目をやりながら。
「さてと…」
鼓は受付窓口に向き直り、看護婦に訪ねた。
「あの、ここに、小田貫桜って人は居るっすか?」
久々に母の名前を口にした。
看護婦が、思わず「え?」と聞き返した。
「おいら、小田貫鼓という者っす…
あの…ずっと前に母ちゃんが死んじゃって、あ、いや本当は死んでなくて…えぇっと、その…」
いざ話してみると、どう説明して良いかわからなかった。
混乱する鼓の肩に、健介の手が置かれた。
「鼓、代わりな」
「あぅ…」
シュンとしっぽを下げた鼓に代わり、健介が事情を説明し始めた。
今回、母親の一件を客観的な視点で見ていただけあって、看護婦との会話もスムーズだった。
程なくして看護婦は、一人の医者に連絡を取った。