十三章「月光」

威勢良く飛び出した鼓と健介だったが、事はそう単調には進まなかった。

証城寺から渡されたメモに書かれている病院の名前と、簡単な周囲の地図だけでは、二人にはさっぱり見当がつかなかったのだ。

神社から離れ、ようやく活気のある街に出た時点ですっかり陽は落ちている。

「どうするよ、鼓…」

「まったく健兄ぃは、人の背中叩いて急かしといて、先のこと何にも考えてないんすね……むぎゅぎゅっ!!」

間髪入れず、健介の手が鼓の頬を左右に引き延ばしていた。

「どの口が言うかっ!このまんじゅうみたいな口か!?」

「いひゃぃいひゃいっす〜!!」

「…ったくよォ」

健介はパッと手を離すと、鼓の髪をくしゃっと撫でた。

「とりあえず、これだけ暗くなると今日中に行くのは無理だな」

「ん〜…」

「腹も減ってるし、今夜はどっか泊まれる所を探そう」

二人は、夜の街の雑踏の中に入っていった。

楽運荘の隣街とはいえ、こうして歩くのは初めてだった。

手頃なビジネスホテルを見つけたのは、歩き始めて程なくした後だった。


ホテルのフロントで健介がチェックインの手続きをしている間、鼓は珍しそうにホテルのロビーを見て回っていた。

「へぇ〜…」

「どうした?」

手続きを済ませ、部屋の鍵を持って健介が歩み寄って来た。

「おいら、こういう洋式のホテルはあんまり来たことなくて…」

「いつもは楽運荘から出ないもんなぁ」

「うん、中学の修学旅行以来っすかねぇ……あ、健兄ぃ健兄ぃ」

「ん?」

鼓の指差したロビーの一角に、検索用のパソコンが一台置かれていた。

「これで病院の場所、調べられるんじゃないっすかね?」

「お、なるほど…」

健介はパソコンの前に立つと早速検索サイトを開き、病院の名前を入力した。

デスクトップの画面に、いくつかの該当結果が表示される。
その中でも一番上に表示されたものが、どうやら八畳大学総合病院の公式ホームページのようだ。

交通アクセスに関する内容を表示し、位置を確認する。

「ん〜と…ここからだと、電車で二時間ってとこだなぁ…ほらこの、青草市ってとこ」

「あ…」

鼓はその名に、ギクリと身をすくませた。

「そこ…おいらの昔住んでたとこっす。そっか、今じゃ市になってるんすねぇ…」

「ふぅん…そういや、何年か前に大規模な市町村合併があったとか聞いたっけなぁ」

「おいら五歳の頃まで住んでただけっすから、ほとんど覚えてないんすけどね」

「よし、とりあえずこのページだけプリントしとくか」

健介は手早くマウスを操作し、病院の地図や交通アクセスが掲載されているペー
ジを印刷した。

「じゃ、行くか」

パソコンの電源を切り、部屋のカードキーを見て部屋番号を確認した。

部屋に案内する健介の姿が、鼓にはいつになく頼もしく見えた。


「ふぃ〜っ…」

二人の部屋は、街を見渡せる八階にあった。
健介は入るなりベッドに腰を降ろした。
鼓は珍しそうに、部屋を見回している。

ダブルルームのその部屋は、安めの料金の割には広く、ゆったりとした大きさのベッドが二台と、バスルームが完備されている。
大きな窓から見える夜景が美しかった。

「健兄ぃ、服…」

「ん?あぁ、」

鼓に言われて、健介は自分の作務衣が雨や泥でひどく汚れていることに気がついた。

「下にコインランドリーがあったろ。今はとりあえずこれ着とこうか」

健介は、ベッドの上に丁寧に置かれていた浴衣を鼓に投げ渡した。

ふっと息を吐き、健介は着ていた作務衣を脱ぎ出した。

「……」

鼓が、照れたように顔を赤らめ、両手に持った浴衣をぎゅっと抱きしめた。

なぜだろう、胸が高鳴る。

「健兄ぃ…」

「ん?」

浴衣に袖を通そうとした健介の横に、短い足でゆっくりと歩み寄った。

「どうした?」

「いや…なんでっすかね…」

ぽふっ、とベッドの柔らかい音がして、健介の隣に腰を降ろした。

「なんか、ドキドキしちゃって…」

「!」

健介が途端に顔を赤くした。
思わず離した手から、浴衣が地面に落ちる。

「んなっ、おまえ、いつも寮で一緒にいるじゃ…」

「それは、そうなんすけど…」

自分でもうまく言えない感情に、戸惑った。

「そうなんすけど……」

「鼓…」

「健兄ぃ、おいら、昼間のこと謝らなきゃ…」

「え?」

「おいら、健兄ぃの顔、まともに見れなくて…」

「あぁ…」

気にしてない、と言えば嘘になる。

「おまえが悪いんじゃないだろ…?」

悪いのは証城寺だ。
きっと、何か手出しをされたに違いない。
そう思っていた。
でなければ、鼓が自分を避けることなど考えられなかった。

だが。

「証城寺先生は、悪くないっす…」

「おまえ…」

自分の気持ちを否定する鼓の言葉に、健介は落胆した。

「悪いのはおいらっす。」

「そんなことないって…」

「おいら、自分に甘えてたんす。守ってくれる親がいないからって、自分はそれでも仕方がないんだって気になって。
育ててくれた女将さんの言うことが正しい、父ちゃんの師匠の証城寺先生のすることは正しいって思い込んで…」

鼓の声には、これまで妥協しかしてこなかった自分への苛立ちが含まれているように思えた。

思い返せば、鼓はいつも自分のことよりも、他人のことを優先した。

学校の友達と遊ぶこともなく、いつも旅館の手伝いに明け暮れていた。
そのことにワガママ一つ言わず、「苦じゃないから」と言う鼓のことを、知らず知らずのうちに女将も都合良く扱ってしまっていたのかもしれない。

「他人の言うことを聞いてれば、全部正しいって思ってたんす。
…でも、そうじゃなかった。他人の言いなりになってきたことは、全部おいらの心が招き入れたことなんだって」

顔を上げ、健介の瞳を見つめた。

「…健兄ぃが言ってくれたから、気付いたんす。
父ちゃんも、女将さんも、証城寺先生も関係ない、おいらが自分の力で歩けばいいんだって…」

「鼓…」

健介が、弱々しく口を開いた。


「…いや、あのさ、俺あの時必死だったから、自分でも何言ったか覚えてないんだなコレがっ」

たはは、と笑って舌を出した。

「うへっ」

鼓が面食らって肩を落とした。

「健兄ぃ、そこはオチ付けなくてもいいトコっすよ…」

「いやぁ…鼓に褒められるのは、なんか小っ恥ずかしくてさぁ」

「ん〜…」

一瞬考えた後、鼓は健介の胸を小突いて言った。

「じゃあ…健兄ぃのヘタレ!」

「そうそう、それそれ!」

お互いに顔を見合わせて笑った。

「腹、減ったな」

「あ、うん」

「そろそろ何か食いに行くか…」

おもむろに延ばした健介の手が、部屋の明かりを落とした。

「うん…あの、その前に…」

立ち上がろうとする健介の手に、鼓の手が重なった。

「ん?」

薄暗くなった室内で、鼓の大きな瞳が、何かを求めるように健介の顔を覗き込んでいた。


窓から差し込む月明かりが、二人の姿を照らし出していた。
今夜の月は一際明るい。

二人の体から伸びた影が、まるで影絵芝居のように、壁にそのシルエットを映し出していた。

二つの影がそっと近づき、一つに重なる様子が、鮮明に。

影が再び二つに離れるのが先か、月光はやがて薄雲に隠れた。

二人の影は、ゆっくりと床に降りた。


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