十二章「真実」

「鼓っ!!」

神社の前に無造作に停めた車から、健介が弾かれるように飛び出した。
やや遅れて、助手席に座っていた女将も。


鼓は部屋の窓から、二人の姿を目にして動揺した。

「健兄ぃ…」

「帰りたいか?」

おもむろに、証城寺が鼓の肩を掴んだ。
振り返った鼓の目は怯えているようでもある。

証城寺は肩から胸元へと手を延ばし、鼓のふくよかな胸をぎゅっと揉んだ。

「あぅ…」

脱力し、寄り掛かってくる鼓の頭を優しく撫で、証城寺は鼓を文字通り完全に手中に納めたことを確信した。

「さぁ、行くぞ」

鼓を抱き起こし、神社の外へと促した。


重い雲に覆われた空の下、生暖かい風が吹き抜けていた。
土はぬかるみ、健介が地面を蹴る度に、跳ねた泥水が作務衣の下衣を汚していく。
女将の、薄紫色の上品な着物も同様で、雨に濡れた女将の顔からは、普段の気品や落ち着きも消え失せていた。

互いにかける言葉もなく、神社の鳥居をくぐった所で、社の前に立つ二人の影に気が付いた。

「鼓…」

健介が呟いた。
走るのを止め、歩調を緩めて目を凝らした。
目の前にいるのは確かに鼓だ。
今朝まで当たり前のように一緒にいたのに、ずいぶん長い間離ればなれになっていたような気がする。

「鼓っ!!」

今度は、声を張り上げて叫んだ。
鼓を目前にして緩めた足を、再び前に出そうとした。
だが…鼓の異変に気付いた健介は、それ以上は進めなかった。

「…えっ…?」

「フン…」

鼓の肩を抱き、証城寺が鼻で笑った。

鼓が、健介と目を合わさなかったのだ。
健介の後ろに立つ女将からも、顔を逸らした。

「鼓…どうした…?」

「……」

返事は、なかった。

自分たちは鼓を迎えに来たはずだ。
鼓が自分のことを避けるなど、考えてもみなかった。

「お引き取り願おうか。この子は儂のもとで面倒を見ると言っただろう」

証城寺が冷たく言い放った。

「鼓…」

「鼓から手を離しなさい」

肩を落とす健介の絶望を退けるように、女将の鋭い一声が響いた。
その視線は真っ直ぐに証城寺を見据え、凛とした決意に満ちている。

「…楽運荘の女将さんだったね」

「猫柳マサ子です。あなたとは一度だけお会いしたことがありますね」

「…鳴樹の葬式の時か」

鼓の耳がピクリと反応した。
鼓には、両親の葬式の記憶はなかった。
当時は心身ともに事故の傷が癒えぬままで、病院で眠っていたはずだ。

「いったいどういう権利があって、あなたは私たちからその子を引き離せると言うんです!?」

「この子のためだ。それ以外に理由などない」

「あなたのしたことは犯罪ですよ!?鼓は私にとってかけがえのない家族です。あなたに奪われる道理などありません…!」

「綺麗事を言うな!」

証城寺が怒気を妊んだ口調で言った。

「かけがえのない家族だと?鼓に本当のこと一つ伝えずに何を勝手なことを…」

本当のこと…?

証城寺がその言葉を発した時、女将の顔が強張ったのを鼓と健介は見逃さなかった。

「知っているのですね…」

「儂とて鳴樹の師だ。知らぬはずがなかろう」

「何のことっすか…?」

不安そうに証城寺の顔を見上げる鼓の背中に、証城寺の大きな手が触れた。

「鼓、おまえはずっと騙されていたんだ。13年前のあの日から…」

「やめて!」

悲鳴とも取れる声で、女将が叫んだ。

「…それは、私が言うべきことです…!」

女将は証城寺の鋭い眼光を跳ね退け、鼓の前に足を進めた。

「鼓…」

不安げな鼓の手を、両手で強く握り締めた。

「よく聞いて。あなたのお母さんは…生きてるわ」

「!?」

急に言われたその一言を、鼓は実感を持って受け取ることができなかった。

鼓の母は死んでいるのだ。
13年間もそう信じていたことを、女将のたった一言で覆されるはずがない。

「でも、信じて。騙すつもりも、隠しているつもりもなかった。いずれ、私から話すつもりだった…」

「女将さん…」

膝を落とし、足元にすがる女将の肩を、鼓の柔らかい手が軽く支えた。
鼓とて、平静ではない。
だが、自分の曖昧な態度のせいで女将や健介が苦しむことの方が耐えられない。

慎重に、言葉を選ぶ。

「…心配かけてごめんなさいっす。おいら、女将さんや健兄ぃや、楽運荘のみんなのことが大好きっすよ。例え何があっても、それは変わらないっす。」

「鼓…」

「でもおいら、たぶん自分の周りのこと以外、何も知らなかったんす…腹鼓のことも、父ちゃんや母ちゃんのことも。だから、本当に生きてるのなら、おいら、母ちゃんに会いたいっす」

「…駄目…」

女将は目を伏せた。

「彼女に会えば、あなたが辛い思いをするだけ」

「そんな…」

「鼓よ」

証城寺が声をかけた。

「おまえは、腹鼓で人を幸せにできると言ったな…?」

「はいっす…」

「ならば行ってみるが良い。所詮そんなことは戯事と知るだろうからな」

証城寺は、懐から一冊の手帳を取り出すと、その中の一枚のメモを鼓に手渡した。

「八畳大学総合病院…」

メモには、その病院の名前と簡単な地図が記されていた。

「ここに、母ちゃんが…?」

証城寺は頷きを返した。

「自分の目で確かめるがいい。全てをな…」

相変わらずの冷淡な口調だった。

「…女将さん」

鼓は、女将を抱き起こすと、優しく微笑んでみせた。

「ちょっとだけ、休暇が欲しいっす」

「鼓…」

鼓がこの事実を知ってしまった以上、女将に止める権利はなかった。

「もう一度言うわ。彼女に会えば、あなたは辛い思いしかしない…」

そこまで言って、女将は鼓に背を向けた。

「行けばあなたは絶望するかもしれない。でも、忘れないで。あなたには帰る場所があるのよ」

「…はいっす」

鼓は、立ち尽くす女将の背中の先に見える、健介に駆け寄った。

「健兄ぃ」

「…」

健介は、鼓から顔を反らした。

「何なんだよ…」

「え…?」

「どうしておまえだけがこんな目にあわなきゃいけないんだよっ!」

「健兄ぃ…」

「このジジィの言うことが何だよ、女将さんの言うことが何だよ!大人の言い分に振り回される必要なんかないだろ!!」

鼓はいつだってそうだ。
自分の気持ちを押し殺して、他人のことを想いやる。

「ふざけんなよ、腹鼓が何だ、楽運荘が何だ!!おまえは小田貫鼓として、一番やりたいことをやればいいだろ!!」

感情のまま、整理せずに放たれる健介の言葉は不格好だった。
だが、鼓の心に揺さぶりをかけるには十分すぎるほどの叫びだった。


「…ちくしょうっ!!」

健介は悔やんでいた。
自分は鼓のことなら何でも知っている相棒のつもりでいた。
だが実際は何も知らなかったのだ。
鼓自身も知らないことを知っている女将や証城寺の言葉に翻弄される鼓を見ていられなかった。

今朝だって鼓を守れなかった。今も、ただ傍観していることしかできず、何の力にもなれなかった。

健介はその場に膝をつくと、地面に拳を激しく叩き付けた。

「俺なんか、何の力にも……」

「健兄ぃ」

「…!」

健介の拳を、鼓の差し延べた手が包んだ。

「また力になってほしいっす…」

「鼓…」

「いつだって健兄ぃは、おいらを支えてくれたじゃないっすか?おいら独りじゃ足がすくむようなことも、健兄ぃがいてくれたからできたんすよ。だから…」

「……」

健介は鼓に頷いた後、女将に目を向けた。

女将は不安を飲み込み、健介に頭を下げた。

健介は立ち上がると、鼓の背中を強く叩いた。

「いだっ!!」

「ボサッとしてないで、行くぞ鼓!」

「…はいっす!」

二人は、強く地面を蹴って駆け出した。
雨は止み、雲の隙間から一条の光が差し込んでいる。


二人の背中を見送る証城寺の目は、いまだ暗い輝きを宿していた。

「変えられない運命などいくらでもある。それを知れば鼓も、儂と同じ道を辿るしかないさ」

女将が、訪ねた。

「やはりあなたも知っているんですね?彼女がどういう状態か・・・」

「儂とて、救いたかったさ」

証城寺はふっと息を吐くと、女将を神社の中へと促した。

「中で少し、話をしましょうかな…」

女将は頷き、神社に向かう証城寺の後に続いた。


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