十章「愛憎」

「…小田貫、鼓か」

神社に戻った証城寺は、未だ意識を失ったままの鼓を座敷に寝かせた。
鼓の顔をまじまじと見つめ、深く溜め息をつく。

「本当によく似ておる…」

かつての自分の弟子であった小田貫鳴樹の息子である鼓に、自然に鳴樹の面影が重なる。

「鳴樹よ…」

自慢の弟子だった。
いずれは証城寺を越え、腹鼓の世界を背負って立つ男となるはずだった。

証城寺はそんな鳴樹に、並々ならぬ情愛を注いでいた。十八年前のあの日、袂を分かつことになるまでは。

目の前で眠る鼓も父と同じく、腹鼓師として歩むべきではない道を行こうとしている。
だが、まだ若い今ならまだ鼓を誤った考えから救えるはずだ。

証城寺は愛おしげに鼓の頬を撫でると、そっと唇を重ねた。
鳴樹と同じ柔らかさだった。


一方、楽運荘。
倒れている所を同僚に発見された健介は、手当てもそこそこに寮に駆け込み、鼓の本棚を漁っていた。

腹鼓に関する資料や書籍が揃っている中に、腹鼓師協会の名を語ったあの男に関する手掛かりもあるかもしれない。

「ちくしょうっ…!」

あの時のことを思い出すと、悔しさに涙が溢れる。
ゴシゴシと目をこすり、資料に片っ端から目を通す。

「!」

手にした本の一冊に、小さなリーフレットが挟まれていた。
『腹鼓師協会手引書』と記された中には、協会の重役と思われる数名のタヌキ族が写真つきで紹介されていた。
健介はその中に、先程の男の姿を見つけた。

「証城寺響…協会、理事長補佐…!?」

腹鼓師のタヌキには、別の職業で生計を立てている者も多いようで、証城寺の職業は神主とあった。
神社の名は、太尾山神宮。
楽運荘からは車で一時間ほどの場所だ。
健介は意を決し、車の鍵を握った。

「健介!」

寮を飛び出した健介を、女将の声が引き止めた。

「女将さん…」

「本当なの?鼓が誘拐されたっていうのは…」

女将の声が震えている。
健介を手当てした同僚から連絡を受けて飛び出してきたのだろう、荒い呼吸で、苦しそうに胸を押さえている。

「すみません、俺、目の前であいつが連れて行かれるのを見てることしかできなくて…」

「あの子にもしものことがあったら、私は…!」

いつも、とても大きく感じられる女将の姿が、とても小さい。
幼い頃から鼓の母親代わりを努めてきたのだ、平静でいられるはずがない。

ポツリ、と、天から雫が落ちた。
徐々に空を覆い隠していた暗雲から降り始めた雨が、防ぐもののない駐車場にいる二人を容赦なく濡らす。

健介は今にも泣き崩れそうな女将の肩を支えた。

「一緒に行きましょう」

女将が、頷いた。


「うっ…」

鼓が短く呻いた。
全身に虚脱感を感じつつも、重い瞼を開けた。

「ここは…おいら…」

軽い目眩に頭を押さえた。
混乱した頭を整理しようと記憶を辿るが、証城寺に腹を叩かれてからの記憶がない。
見渡すと、どうやら八畳ほどの座敷の真ん中にそのまま寝かされていたようだ。

まだ重苦しさの残るお腹を押さえて身体を起こす。

「気がついたようだな」

「!」

不意に背後から聞こえたその声に、思わず身をすくませた。
ゆっくりと部屋に入って来た証城寺に、反射的に警戒心を剥き出しにした。
ピンと逆立ったしっぽがそれを象徴している。

「そう怖がらなくても良い…手荒な真似をしたことは謝ろう」

「お、おいらをどうするつもりっすか…!」

「どうもしないさ。ここに連れて来たのは、ゆっくり二人で話したかっただけだからね…」

「話って…」

「まずはこの記事を見てほしい」

証城寺は懐から、新聞の切り抜きを取り出した。

「あ、これ…」

例の、宇佐見母子の記事である。

「君は腹鼓を用いてこの女の子を勇気付けたとあるが…?」

「はいっす、喜んでくれたっすよ」

「愚かな…君は腹鼓を平気で人前で打つのかね」

「えっ…?」

意外な反応だった。
褒められこそすれ、愚かなどと言われる筋合いはないと思っていた。

「君は父親の死後、誰にも教えを請わずに独学のみでここまで歩んで来たようだが、そのために大事なことを知らないままのようだ…」

嘆かわしそうに眉をしかめた。

「腹鼓とは、人のためにあるものではないのだよ」

「どういうことっすか?」

「本来は神事や清めの儀において、神に捧げるための音色だ。軽々しく人前で打つものではない」

「でも、父ちゃんは、これは人を幸せにできる力だって…」

「鳴樹の言うことなど鵜呑みにしてはならん。親子揃って腹鼓師の道を外れるつもりか?」

「道って何なんすか…」

「天の決めた道だ」

鼓の記憶の中の父は、祭や宴会などがある度に楽しげに腹鼓を打っていた。
それを観る人の全てが、幸せそうな表情をしていた。
それこそが腹鼓師の仕事なのだと信じている。

「確かにもともとはそういうものだったのかも知れないっす。でも、そうやって何でも型にはめようとする考え方、良くないんじゃないっすか…?」

「鳴樹が儂の元を離れた時に、同じことを言ったな…」

「おいら、父ちゃんのことをよく知りたくて腹鼓を始めたんすよ。みんなを喜ばせてた父ちゃんが好きなんす」

「みんなを喜ばせるため、と言うが…君の力は客寄せのために利用されているだけかもしれんぞ?」

先程の記事を突き付けた。

「珍しい腹鼓師の従業員がいる宿ということで、宣伝効果は大きいだろう。いくら綺麗事をうたっても、所詮は商売道具にされるのがオチだ」

鼓は、健介の言ったことを思い出した。
確かに記事が載って以来、鼓が目当ての予約が殺到していると。

「女将さんがそんなこと考えるはずがないっす…」

「ならばなぜ記事の掲載を認めた?金が絡めばどんな善人聖者も人が変わる。儂は君を金などで汚したくはない…」

証城寺の太い腕が、鼓の肩を抱き寄せた。

「う…」

「正直に言おう、儂は君が欲しい」

「証城寺先生…?」

「儂が愛した鳴樹は、君の母と出会って考えを変えた…」

「母ちゃんと…?」


十八年前の夜、鳴樹は証城寺に教えを受けていた。
神社に、鳴樹の腹鼓が響いていた。

ドンッ、ドドンッ…

「どうした?音に迷いが見えるが」

「…証城寺先生」

鳴樹は、腹を打つ手を止めた。
深刻そうな面持ちで証城寺を見つめた。

「おれ、証城寺先生に一生着いていくつもりっした…」

「急に何を言い出す?」

「…でも、おれ…」

鳴樹の目に涙が溢れる。

「今度…子供が産まれるっす…」

「……そうか、めでたいな」

「証城寺先生ぇ…」

「お主が別の娘を好いておることなど気付いておったわ」

「先生、おれ…この腹鼓、生まれてくる子供や、これから作る家族のために叩きたいっす…」

「……」

「神様のために叩くことも大切なことかも知れないっすけど、この音が、今を一生懸命生きる人の力になることがあるかもしれないっす」

「…儂一人越えられず、そんな立派な口が聞けるのか」

「…自分の道を決めるのは、自分っすよ」

鳴樹の決意は明らかだった。
鳴樹が正しいとは思わなかった。だが証城寺は止められなかった。

鳴樹を、愛するが故の選択だった。
その五年後に鳴樹も、その妻も命を落とすことを知っていたなら、絶対に認めはしなかった。

道を外れたために鳴樹は死んだ。

もう、あんな絶望は味わいたくない。
この鼓も、道を外れたままではいつか非情な運命に晒されるかもしれない。

儂の元に置かねば。
儂が救わねば。

もはや冷静な思考ではなかった。
目の前にいる鼓は、もう鼓ではなく、自分の18年前に止まってしまった過去を取り戻すための、鳴樹の身代わりでしかなかった。


十一章「支配」へ

戻る