第8話
「えたーなる・トラいあんぐる」


 海沿いの防波堤を、一台のスポーツバイクが駆けてゆく。吹きすさぶ風に、黄色と黒の縞模様の長い尻尾が流れる。
 青い夜空には満月が輝き、レザー製のライダースーツに身を包んだ早苗はそれに気付いて、ふと速度を緩める。
 彼女はどこか懐かしそうに目を細め、左手に広がる海を見た。
 どこまでも深く青い海に、満月へと続く白い光の橋がかかっているように見えた。

――そうだ、これは……

「ムーンロード……だっけ?」

 問いかけるようにつぶやく。

――教えてくれたのはあいつだ。
――二十年前のあの夜も、アタシとあいつは同じ光の橋を見ていた。


「あの満月の光が海面に反射して、それが月に続く道に見えることがあるんッスよー」

 白い浜辺。二人の足先に時おり、柔らかな波が触れる。
 族車仕様に改造された真っ黒なスクーターにもたれかかりながら、オオカミ族の少年は短い指をくるくると動かし、月から海へと続く光をなぞってみせた。

 古宇拓也。

 ずんぐりとよく肥えた少年で、オオカミと言うよりはむしろ仔犬のように丸々とした顔立ちが特徴的だった。
 人の体格は、生まれついた種族によってある程度決まっている。彼の属するオオカミ族は元来、端整で鋭い体格と容姿を有する種族だ。
 それにもかかわらず、拓也の腹はすでに学ランのボタンも止められないほど張り出している。その体形はオオカミ族としては異端で、それが原因でからかわれることもあった。

「綺麗ッスよねぇ。この地方の名景百選にも入ってんッスよ〜」

 月を眺めてのんびりと語る拓也の横に座っていた早苗は、まどろんだ表情で彼の横顔を眺めた。

「……つくづく不思議だよ。なんであんたみたいなのが、アタシらなんかとつるんでるんだか」

「な〜にを今さらっ」

 拓也のバイクの後部に立てられた旗が、潮風にたなびいている。記されているのは『青草便所蝿特攻隊』の汚い文字。
 早苗がリーダーを務めるヤンキーの一団で、隊員数は十名。拓也もその一人だ。

「だっておれは、あねごに一生ついていこうって、あの時決めたんだもん」

 ほころんだ顔で答える。
 あの時、というのは拓也が早苗と出会った日のことだ。
 トロそうな外見が標的にされやすいのか、彼は町で数人の不良学生たちにカツアゲを受けていた。
 それを救ったのが、たまたま居合わせた早苗だった。彼女は人数差もものともせずに、不良学生をあっという間に叩きのめしてしまった。
 それ以来拓也は早苗に心酔してしまい、ついには彼女の率いる族にまで参加してしまったのだ。

「あたしとしちゃあ、そんなつもりはなかったんだけどねぇ。あの時あんたに絡んでたガキどもが、うちのシマで偉そうにしてるのがムカついただけだし」

「でもあねご、かっこよかったッスよー♪」

「はいはい……」

 素っ気なく答える。
 わずかに静けさが生まれ、さざ波の音が響く。
 眼前には月の橋。ヤンキーが見る景色にしてはロマンチックすぎるだろうと、早苗は背筋がむずがゆくなるのを感じた。

「ねぇ、あねご……?」

 波が引くのを待ち、拓也がふと神妙な顔で口を開いた。

「なんだい?」

「あのさ、えっと……」

 見ると、彼は顔をほんのりと赤らめ、所在なさげに人差し指で砂にのの字を書いている。

「おれさ、あねごのことが……」

「えっ……」

 思わずドキリとする。

「あねごのことが……す……す……」

 早苗が顔を真っ赤にして、ゴクリと生唾を飲む。続きを聞きたいような、聞きたくないような。
 他のヤンキー仲間がいなくて良かった。それほど威厳のかけらもない表情だった。
 拓也はなかなか言葉を吐き出せずに、もごもごと口ごもりながら視線をさまよわせる。

「あぁもうっ、言いたいことがあるならさっさと言いな!」

 早苗の苛立った言葉にびくりと肩をすくませ、拓也は思わずこう口走った。

「……す、すばらしいヤンキーだなぁって思ってるんッスよ」

 どうやら気恥ずかしさと緊張に負けたらしい。
 早苗はがくっと肩を落とした。

――このヘタレ野郎。だいたい、ヤンキーにすばらしいもクソもないだろうに。

「あんたって奴は……」

 ぽふっ、と拓也の腹を軽く叩いてやる。彼の言いたいことはわかっている。
 たぶん、拓也が自分と出会った頃からずっと抱えているに違いない言葉だろう。
 彼は何度となく、早苗と二人きりになることがあればそれを言い出そうとして――その度に口ごもってしまっていた。たしか、もう八回目。

「むはー……」

「ま、いいけどさ。さて……」

 早苗はふと、右手に見える時計台に目を向けた。そろそろ、日付が変わる。

「アタシはそろそろ帰るよ。これ以上アンタに毒気抜かれちゃたまんないからね」

 すっと立ち上がり、ズボンの尻に付いた砂を払う。

「あ、あねごっ」

 慌てた様子で拓也が呼び止めた。

「ったく、今度は何だい」

「今度、旅行とか行かねぇッスか?できたら、その、二人で……!」

 やたらと早口だった。きっと、今言える範囲での精一杯の言葉だった。

「旅行?」

「温泉とか、行けたらいいなぁって……」

 早苗はしばし腕を組んで考える素振りを見せた。ドキドキと胸を押さえる拓也をうんと焦らしてやる。

「その内ね、考えとくよ」

 その言葉に、拓也はにぱっと笑った。

「約束ッスよ!」

 月は先ほどよりもわずかに傾き、光の橋は海に溶けるように、消えていった。


「約束、か」

 あの頃見た時計台も潮風に晒されてずいぶんと錆びつき、汚れていた。
 早苗はそっと時計台の側に立ち、海にかかった光の橋が溶けゆく様を見つめ、目を細めた。

 二人で光の橋を見ながら、約束を交わしたあの夜。
 拓也が精一杯の言葉をぶつけてきた、あの夜。

 拓也は死んだ。
 
 バイクを引いて家に帰る途中、運悪く居眠り運転のトラックに撥ねられて。
 トラックと身体の間のバイクが盾になり、尚且つトラックがスピードを出していなかったため、目立った外傷はなかったように見えた。
 しかし打ち所が悪く首の骨を折り、即死だったらしい。
 バイクを引かずに走って帰っていれば、あるいは避けられた事故だろう。

「……要領悪ィったらありゃしないよ、ったく」

 がつん、と早苗の拳が時計台を響かせた。

 楽運荘の中の小庭園では、鈴虫が涼やかに鳴いていた。

「り〜ん、り〜んっとなぁ……」

 石椅子に座った巧の鳴き真似が混じる。彼は力なく天を仰ぎ、ため息をついた。

「あねごぉ……」

 また、ダメだった。
 どれだけちょっかいを出しても、今日という日だけは早苗は自分を見てはくれない。
 すでに居ない男に、自分は勝てないのだということを思い知らされる。

「あ〜あ、悔しいなぁ」

 ぐっと頭を上げていくと、巧の額にコツンとアルミ缶が当たった。

「にゃ?」

「何一人で凹んでんだよ、おまえわ」

 巧の視界に、背後から覗き込む健介の顔が逆さまに映る。

「けんすけ……」

「ほれ」

 健介の差し出したそれは、缶チューハイだった。

「え、何、ボクに?」

「飲みたい気分なんじゃなかったのか?」

「や、ここで飲むと後であねごに怒られるし……」

「そん時ゃ俺がフォローしてやるさ」

――お人好しだなぁ、とは自分でも思う。前に、酔った巧に散々な目に遭わされてるってのに。

 そんな健介の心情を察したのか、巧はどこか申し訳なさそうに頭を下げた。
  石椅子の真ん中に陣取っている巧を押しのけ、健介はその隣に割り込んで座る。

「で、どうしたよ?」

「なんつーかさぁ……」

 巧はチューハイの缶を開けると、一口だけ口にした。

「やっぱ勝てない恋のレースってもんは、したくないなーって」

「はぁ?」

「好きな人に、昔死んだ恋人がいて、その人のことが忘れられないっていうなら、健介だったらどーするよ?」

 巧が言い終わるが早いか、健介が平手を向けて「ちょっと待った」と制した。

「にゃ?」

「好きな人っておまえ、居るの?」

「いるよ?」

「女の子全員とか言うのはナシな」

「……」

「そこで黙るなっ」

 健介に突っ込まれ、巧はしばし何かを考えるように空を仰いだ。
「はぁ……」と短く息を吐き、小さく呟くように言った。

「あねごだよ」

「一応、本命だったのか……」

「ダレ専ってのもウソじゃないけどね〜。唯一、本気になれるとしたらあねごなんだけど」

「なれるとしたらって、じゃあ今は本気じゃないのかよ」

 そこまで言って、先ほど巧が言いかけた言葉を思い出す。

「あ……そうか」

「うん、今日はあねごの好きだった男の命日」

 もう一口、巧は酒を飲んだ。

「ボクが何度あねごの気を引こうとしても、この日だけはダメなんだよ。ボクは……死んじゃった奴にゃ勝てないんだなーって」

「巧……」

 酒のせいもあるのか、巧の顔からいつもの気楽さが抜けていた。
 死んだ男との恋のレースというわけだ。勝敗を競うどころか、巧は同じコースにすら立ち入ることができない。
 健介は思った。もしかしたら、巧のナンパ好きは、早苗姐さんが振り向いてくれない反動によるものかもしれないと。
 でも、それでは……一時の気は紛れるだろうが、肝心なところは何も変わらないではないか。
 健介はしばし考え、ゆっくりと言った。

「俺だったら、それでも好きだって気持ちをぶつけるしかないんじゃないかって思うよ」

「前の相手が忘れられなくても?」

「問題はそこじゃねぇだろ。成功するしないじゃなく、好きって気持ちを悶々と抱えたまんまで何が変わるんだよ?」

「はふぅ」

 さらに一口、チューハイをあおる。

「ボクだってさー、今回みたいにいろいろ気を引こうとしてんのにさー」

「やり方が回りくどいっつーか、不義理すぎんだよ、おまえは」

「ふぎり?」

「振り向いてもらえないのはまじめにやらないからだっての。何だよ盗撮とかナンパとか。そんなんで気持ちが伝わるわけねーだろ」

「だ、だってさぁっ」

「だってじゃない。気を引くも何も、結局行動する前に諦めて、死んだ元カレに嫉妬して嫌がらせしてるだけじゃねーか、馬鹿馬鹿しい」

「ぼ、ボクはボクなりに……!!」

 思わず巧が立ち上がった。が、それ以上の反論できる言葉も見当たらない彼を、健介の次の言葉が制した。

「三角関係を言い訳にして、みっともないことをすんなって言ってんだ。好きなら好きで、その二文字だけ伝えりゃそれで済むんだよ」

「……!」

「巧が早苗姐さんを好きだって気持ちに、姐さんの前カレは関係ないだろ?」

 力強い、ごまかしのない言葉だった。
 胸にまっすぐ突き刺さってくる。それに比べて自分はなんと不甲斐ないことか。
 自然と涙が、溢れてくる。

「けんすけぇ……」

巧の潤んだ瞳が健介を見つめた。

「ボク……」

「さぁ!わかったなら男ならやるこたぁ一つだ!」

「……ボク、健介が女だったら今この場で押し倒してたにゃぁ」

「死ねっ!!」

 健介の拳が視界いっぱいに飛び込んでくるのを見ながら、巧は思った。

――このバカ正直なところが、鼓は好きなんだろうなぁ。あーあ、うらやましいなぁ。

「……ふご!!」

 健介のパンチをまともに顔面に食らい、巧の巨体は仰向けに崩れた。


 無数の墓石が立ち並ぶ、夜の霊園に一人で踏み入ることにも、早苗はもう慣れていた。
 右手の懐中電灯の灯り一つを頼りに、彼女は平然と霊園の奥へと進んでいく。左手には、大きな水筒を抱えていた。
 さりとて恐怖は感じない。
 どちらかと言えば、早苗は幽霊の類は信じるタイプだが、二十年間欠かさず夜の墓場に足を踏み入れていても、特に何かの異変を経験したことはなかった。
 夏の夜風は生ぬるくて気持ち悪いし、蚊がとても多くてうっとうしい。あと、線香の匂いはあまり好きじゃない。早苗が感じるのはせいぜいそのぐらいだ。

――霊感とかがある人は、こういう場所で何か感じたり、見えたりするんだろうかねぇ?

――だったら……自分も霊感が欲しいな、と思う。ここにアイツが居て、その存在を具体的に感じることができるなら。

 やがて一つの小さな墓石の前で、早苗は足を止めた。古宇拓也と、彼の名が彫られている。
 昼間、彼の家族がすでに来たのだろう。花瓶に綺麗な花が添えられている。彼女はそっと腰を下ろして合掌した。

「待たせたね」

 そう呟き、立ち上がると水筒の蓋を開け、中身を墓石の上からかけてやる。湯気の立った、少し濁ったお湯――楽運荘の温泉だ。
 これで温泉に行く約束を果たしたことになるのかどうかはわからなかったが、早苗にできることはこれだけだった。
 自己満足かもしれない。それでも、早苗は二十年間ずっとここに楽運荘のお湯を運んできた。

(あねご……)

 不意に強い風が吹き、拓也の墓に供えられた花瓶が倒れた。早苗が慌ててそれを立て直す。

(気づいてくんねぇッスかねぇ……)

『彼』は、早苗のすぐ後ろに立って居た。
 手を伸ばせば早苗の肩に届く。が、すり抜けてしまう。

 目の前にいる彼女を抱き寄せたかった。伝えたい言葉があった。

 だが、そのためにはあまりにも『彼』の力は儚く、せいぜい風を吹かせることが精一杯だ。
 よく漫画や映画では、幽霊は人知を超えた計り知れない力を持っているように描かれているが、実際はそんな便利な存在ではない。個人の力量や、風水、陰陽道などでいう空間の「気」の流れにも存在を左右される。
 自由に動き回れれば、早苗の側にずっと付いていたかったが、彼の微弱な力ではこの土地を離れることはできない。
 それでも、この地にとどまって粘り続ければいつかは気づいてくれるかも、と思って、毎年のこの日をずっと待っていた。
 二十年目の今日も、気づいてはくれない。

 すでに時間の概念を失った『彼』とは違い、早苗の姿は毎年少しずつ変わっていく。少し、毛皮のツヤが落ちたんじゃ?と『彼』は心配した。
 そんな『彼』の気配を感じ取ることもなく、早苗は「また来るね」と墓石に囁き、背を向けた。

(ああ、またダメかぁ……)

『彼』が肩を落とした、その時だった。

「あねご!」

「え……」

(へ……?)

『彼』の知らない、パンダ族の青年が、早苗に向かってゆっくりと近づいてくる。

(だ、誰……?)

「巧……!?アンタ、この場所知って……」

 その青年は早苗の前に立つと、拓也の墓をちらりと一瞥し、早苗と対峙した。

「ナンパ暦20年、ストーカーの腕前も大したもんでしょ?」

「威張るんじゃない、んなこと」

『彼』は突然の見知らぬ人物に動揺しながらも、二人の間に立って状況を整理した。どうやらこのパンダの男は巧という名で、あねごと顔見知り。で、ストーカー。

「何しに来たのさアンタ、こんな所まで!」

「いや、その、あねごにどうしても言っておかなきゃいけないことがあって……」

 巧はぐっと拳を握り締めた。額に脂汗が滲んでいる。
 思わず、早苗が息を呑む。今まで見たことのない、巧の真剣な表情。
 健介の助言通り、余計な問答は無用と判断したのか、彼はいきなり本題を口にしようとした。

「あのさ、ボク……あねごのことが……」

 その言葉に息を呑んだのは早苗だけではない。『彼』もだ。
『彼』には、巧の次に言わんとする言葉が直感的にわかってしまった。

「あねごのことが……す……す……」

 早苗も、巧が言わんとしていることに気が付いた。同じ状況を経験したことがあるのだから。
 そして早苗も『彼』も、同時に確信した。

――ムリだな、と。

「す……すばらしい格闘技の達人になれるんじゃないかなぁとおもって……」

 がく。

 三人が同時に肩を落とした。

「まぁ……いいんだけどさ、でも、」

 早苗が拓也の墓石を指し示し、鋭い視線を巧にぶつけた。

「ここがどんな場所か、わかった上で追いかけてきたんだろうね?」

「……うん」

 巧は小さく、しかし、はっきりと頷いた。

――そうまでして干渉してくるとはねぇ。案外、そこまでグダグダな野郎ってわけでもないのか……

 巧にも、まっすぐな一面はあるのだと感じ、早苗は面倒臭そうに頭をボサボサと掻いた。

「宿に帰ったらもう1回だけ聞いてやってもいいよ。ちゃんと言いたいことは整理しとくんだね」

「え、あねご……」

 うろたえる巧を尻目に、早苗はその場をすたすたと歩き去って行く。
 告白に失敗した手前、すぐに追いかける気にはなれなかった。

「あねごぉ……」

 その場に力なく膝を折り、放心する巧のすぐ横で――『彼』は不思議な感覚を覚えていた。
 まるでもう一人の自分がそこにいるような。
 引き寄せられるように、自然と『彼』の手が巧の肩に伸び――『触れた』。

(え……?)

 今までにない感覚に、『彼』が目を見開く。

「ひゃ!?」

 急に肩に何かの存在を感じ、巧が後ろを振り向く。

「……」

 誰もいない。でも、誰かがいる。巧の眼は何もないはずの空間の、ある一点を凝視していた。

 <ここがどんな場所か、わかった上で追いかけてきたんだろうね?>

 早苗の言葉を思い出し、ふと足元の墓石を見やる。そう、ここは早苗の好きだった男の居る場所だ。
 一瞬、風がピタリと止み、巧が生唾を飲み込む音だけが響いた。

「古宇、拓也……?」

 得体の知れないものに対する恐怖心は、その存在の正体さえわかればある程度抑えることができると無意識に判断し、巧は墓に刻まれた名前を声に出す。

『彼』――拓也は、巧のすぐ後ろに居た。見えるわけではない。しかしその瞬間、巧にはハッキリと感じ取ることができた。
 拓也の茶色い毛皮と、大きな三角形の耳、真ん丸く出っ張った鼻先に……大きな腹を抱えて突っ立っている。

(おれが、わかるんッスか……?)

「う、うん……」

 柔らかい声が、直接胸に届くような感覚だった。
 永遠に繋がるはずのなかった三角関係の一点が、繋がった瞬間だった。

→第9話 「あなたと合体しちゃったよ」

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