第8話
「えたーなる・トラいあんぐる」
「あの満月の光が海面に反射して、それが月に続く道に見えることがあるんッスよー」
白い浜辺。二人の足先に時おり、柔らかな波が触れる。
族車仕様に改造された真っ黒なスクーターにもたれかかりながら、オオカミ族の少年は短い指をくるくると動かし、月から海へと続く光をなぞってみせた。
古宇拓也。
ずんぐりとよく肥えた少年で、オオカミと言うよりはむしろ仔犬のように丸々とした顔立ちが特徴的だった。
人の体格は、生まれついた種族によってある程度決まっている。彼の属するオオカミ族は元来、端整で鋭い体格と容姿を有する種族だ。
それにもかかわらず、拓也の腹はすでに学ランのボタンも止められないほど張り出している。その体形はオオカミ族としては異端で、それが原因でからかわれることもあった。
「綺麗ッスよねぇ。この地方の名景百選にも入ってんッスよ〜」
月を眺めてのんびりと語る拓也の横に座っていた早苗は、まどろんだ表情で彼の横顔を眺めた。
「……つくづく不思議だよ。なんであんたみたいなのが、アタシらなんかとつるんでるんだか」
「な〜にを今さらっ」
拓也のバイクの後部に立てられた旗が、潮風にたなびいている。記されているのは『青草便所蝿特攻隊』の汚い文字。
早苗がリーダーを務めるヤンキーの一団で、隊員数は十名。拓也もその一人だ。
「だっておれは、あねごに一生ついていこうって、あの時決めたんだもん」
ほころんだ顔で答える。
あの時、というのは拓也が早苗と出会った日のことだ。
トロそうな外見が標的にされやすいのか、彼は町で数人の不良学生たちにカツアゲを受けていた。
それを救ったのが、たまたま居合わせた早苗だった。彼女は人数差もものともせずに、不良学生をあっという間に叩きのめしてしまった。
それ以来拓也は早苗に心酔してしまい、ついには彼女の率いる族にまで参加してしまったのだ。
「あたしとしちゃあ、そんなつもりはなかったんだけどねぇ。あの時あんたに絡んでたガキどもが、うちのシマで偉そうにしてるのがムカついただけだし」
「でもあねご、かっこよかったッスよー♪」
「はいはい……」
素っ気なく答える。
わずかに静けさが生まれ、さざ波の音が響く。
眼前には月の橋。ヤンキーが見る景色にしてはロマンチックすぎるだろうと、早苗は背筋がむずがゆくなるのを感じた。
「ねぇ、あねご……?」
波が引くのを待ち、拓也がふと神妙な顔で口を開いた。
「なんだい?」
「あのさ、えっと……」
見ると、彼は顔をほんのりと赤らめ、所在なさげに人差し指で砂にのの字を書いている。
「おれさ、あねごのことが……」
「えっ……」
思わずドキリとする。
「あねごのことが……す……す……」
早苗が顔を真っ赤にして、ゴクリと生唾を飲む。続きを聞きたいような、聞きたくないような。
他のヤンキー仲間がいなくて良かった。それほど威厳のかけらもない表情だった。
拓也はなかなか言葉を吐き出せずに、もごもごと口ごもりながら視線をさまよわせる。
「あぁもうっ、言いたいことがあるならさっさと言いな!」
早苗の苛立った言葉にびくりと肩をすくませ、拓也は思わずこう口走った。
「……す、すばらしいヤンキーだなぁって思ってるんッスよ」
どうやら気恥ずかしさと緊張に負けたらしい。
早苗はがくっと肩を落とした。
――このヘタレ野郎。だいたい、ヤンキーにすばらしいもクソもないだろうに。
「あんたって奴は……」
ぽふっ、と拓也の腹を軽く叩いてやる。彼の言いたいことはわかっている。
たぶん、拓也が自分と出会った頃からずっと抱えているに違いない言葉だろう。
彼は何度となく、早苗と二人きりになることがあればそれを言い出そうとして――その度に口ごもってしまっていた。たしか、もう八回目。
「むはー……」
「ま、いいけどさ。さて……」
早苗はふと、右手に見える時計台に目を向けた。そろそろ、日付が変わる。
「アタシはそろそろ帰るよ。これ以上アンタに毒気抜かれちゃたまんないからね」
すっと立ち上がり、ズボンの尻に付いた砂を払う。
「あ、あねごっ」
慌てた様子で拓也が呼び止めた。
「ったく、今度は何だい」
「今度、旅行とか行かねぇッスか?できたら、その、二人で……!」
やたらと早口だった。きっと、今言える範囲での精一杯の言葉だった。
「旅行?」
「温泉とか、行けたらいいなぁって……」
早苗はしばし腕を組んで考える素振りを見せた。ドキドキと胸を押さえる拓也をうんと焦らしてやる。
「その内ね、考えとくよ」
その言葉に、拓也はにぱっと笑った。
「約束ッスよ!」
月は先ほどよりもわずかに傾き、光の橋は海に溶けるように、消えていった。
楽運荘の中の小庭園では、鈴虫が涼やかに鳴いていた。
「り〜ん、り〜んっとなぁ……」
石椅子に座った巧の鳴き真似が混じる。彼は力なく天を仰ぎ、ため息をついた。
「あねごぉ……」
また、ダメだった。
どれだけちょっかいを出しても、今日という日だけは早苗は自分を見てはくれない。
すでに居ない男に、自分は勝てないのだということを思い知らされる。
「あ〜あ、悔しいなぁ」
ぐっと頭を上げていくと、巧の額にコツンとアルミ缶が当たった。
「にゃ?」
「何一人で凹んでんだよ、おまえわ」
巧の視界に、背後から覗き込む健介の顔が逆さまに映る。
「けんすけ……」
「ほれ」
健介の差し出したそれは、缶チューハイだった。
「え、何、ボクに?」
「飲みたい気分なんじゃなかったのか?」
「や、ここで飲むと後であねごに怒られるし……」
「そん時ゃ俺がフォローしてやるさ」
――お人好しだなぁ、とは自分でも思う。前に、酔った巧に散々な目に遭わされてるってのに。
そんな健介の心情を察したのか、巧はどこか申し訳なさそうに頭を下げた。
石椅子の真ん中に陣取っている巧を押しのけ、健介はその隣に割り込んで座る。
「で、どうしたよ?」
「なんつーかさぁ……」
巧はチューハイの缶を開けると、一口だけ口にした。
「やっぱ勝てない恋のレースってもんは、したくないなーって」
「はぁ?」
「好きな人に、昔死んだ恋人がいて、その人のことが忘れられないっていうなら、健介だったらどーするよ?」
巧が言い終わるが早いか、健介が平手を向けて「ちょっと待った」と制した。
「にゃ?」
「好きな人っておまえ、居るの?」
「いるよ?」
「女の子全員とか言うのはナシな」
「……」
「そこで黙るなっ」
健介に突っ込まれ、巧はしばし何かを考えるように空を仰いだ。
「はぁ……」と短く息を吐き、小さく呟くように言った。
「あねごだよ」
「一応、本命だったのか……」
「ダレ専ってのもウソじゃないけどね〜。唯一、本気になれるとしたらあねごなんだけど」
「なれるとしたらって、じゃあ今は本気じゃないのかよ」
そこまで言って、先ほど巧が言いかけた言葉を思い出す。
「あ……そうか」
「うん、今日はあねごの好きだった男の命日」
もう一口、巧は酒を飲んだ。
「ボクが何度あねごの気を引こうとしても、この日だけはダメなんだよ。ボクは……死んじゃった奴にゃ勝てないんだなーって」
「巧……」
酒のせいもあるのか、巧の顔からいつもの気楽さが抜けていた。
死んだ男との恋のレースというわけだ。勝敗を競うどころか、巧は同じコースにすら立ち入ることができない。
健介は思った。もしかしたら、巧のナンパ好きは、早苗姐さんが振り向いてくれない反動によるものかもしれないと。
でも、それでは……一時の気は紛れるだろうが、肝心なところは何も変わらないではないか。
健介はしばし考え、ゆっくりと言った。
「俺だったら、それでも好きだって気持ちをぶつけるしかないんじゃないかって思うよ」
「前の相手が忘れられなくても?」
「問題はそこじゃねぇだろ。成功するしないじゃなく、好きって気持ちを悶々と抱えたまんまで何が変わるんだよ?」
「はふぅ」
さらに一口、チューハイをあおる。
「ボクだってさー、今回みたいにいろいろ気を引こうとしてんのにさー」
「やり方が回りくどいっつーか、不義理すぎんだよ、おまえは」
「ふぎり?」
「振り向いてもらえないのはまじめにやらないからだっての。何だよ盗撮とかナンパとか。そんなんで気持ちが伝わるわけねーだろ」
「だ、だってさぁっ」
「だってじゃない。気を引くも何も、結局行動する前に諦めて、死んだ元カレに嫉妬して嫌がらせしてるだけじゃねーか、馬鹿馬鹿しい」
「ぼ、ボクはボクなりに……!!」
思わず巧が立ち上がった。が、それ以上の反論できる言葉も見当たらない彼を、健介の次の言葉が制した。
「三角関係を言い訳にして、みっともないことをすんなって言ってんだ。好きなら好きで、その二文字だけ伝えりゃそれで済むんだよ」
「……!」
「巧が早苗姐さんを好きだって気持ちに、姐さんの前カレは関係ないだろ?」
力強い、ごまかしのない言葉だった。
胸にまっすぐ突き刺さってくる。それに比べて自分はなんと不甲斐ないことか。
自然と涙が、溢れてくる。
「けんすけぇ……」
巧の潤んだ瞳が健介を見つめた。
「ボク……」
「さぁ!わかったなら男ならやるこたぁ一つだ!」
「……ボク、健介が女だったら今この場で押し倒してたにゃぁ」
「死ねっ!!」
健介の拳が視界いっぱいに飛び込んでくるのを見ながら、巧は思った。
――このバカ正直なところが、鼓は好きなんだろうなぁ。あーあ、うらやましいなぁ。
「……ふご!!」
健介のパンチをまともに顔面に食らい、巧の巨体は仰向けに崩れた。