第9話
「あなたと合体しちゃったよ」


――見えないんだけど、見えてる。

そんな状態で目の前に存在している古宇拓也のことを、巧はこの一言で言い表した。

「うっわ、ヘンな感じ〜!」

(えっ、えっ?)

二十年ぶりに他人と言葉を交わした拓也だが、いきなり言われた言葉が『ヘンな感じ』ときた。
露骨に怖がられるのも困るが、彼の一言には明らかに好奇心しか含まれていない。
ただでさえ他人とのコミュニケーションのカンが鈍っている拓也は対処して良いかわからず、あぐあぐと口を動かすことしかできない。
一方、このパンダときたら興味と好奇心をむき出しにして食らいついてくる。

「ねーねー、やっぱキミってオバケなんだよね!?お腹とか空かないの?オナニーとかできんの!?」

(あ、あうっ、ちょっと待って、まず簡単な自己紹介とか……)

「あ、ボク?半田巧!でさ、オバケでも足って一応付いてんだね!すっげぇ、ホンモノのオバケだよ、はじめて見たよ!!そうだ、写真撮ろうよ写真!アンビリバボーに投稿するからさ、ハイ笑ってー!」

(笑えねっての〜〜〜!!)

ピコーン♪
と、小気味良い電子音が響いて、大口を開けて怒鳴る拓也の顔を巧の携帯のカメラが捉えた。

「やたっ、心霊写真げっと〜!」

(何だよこの人〜……)

巧のあまりのマイペースぶりにうなだれる拓也の顔色など気にもせず、彼はわくわくしながら携帯の携帯の画面を覗き込んだ。
だが。

「あれ?映ってないよ〜……」

確かに拓也の顔をどアップで映したはずの携帯の液晶画面には、目の前にあるただの墓石しか映っていない。
それを拓也が横から覗きながら、

(あーいうのは、おれらみたいな幽霊もその気になってないと映らないんだよね)

「へ〜、じゃあハメ撮りとかもできないんだ。難易度たっけぇ〜」

(いやっ、だからそういう問題じゃ……っていうか、)

「ん?」

拓也は恨めしそうな目つきで巧を睨み、ぽつりと呟いた。

(……あんたさ、早苗のあねごとはどういう関係?)

「見てたっしょ、さっきの。未来の恋人同士だよー」

――どこが。明らかに告白スベってたじゃないスか。なんて無駄にポジティブな。

(うー。おれ、やっぱ成仏できそうにないや……)

「なんで?」

(おれのあねごにこんなバカな人が付きまとってるなんて、絶対ナットクいかねッス〜!!)

「な、なんだとぉ!?」

バカと言われてさすがに腹が立ったのか、巧は拓也を睨み返した。

(な、なんだよ〜)

「ボ ク の あねごだもん!」

――そこかい。

(ちがう!だっておれ、ちゃんとあねごと付き合ってたもん。プロポーズだって、あと寿命が一日長けりゃ……)

「なぁんだ、結局してないんじゃん」

(しようと思ってたけど、事故ってこんなんなっちゃったからできないんだっての!)

「はいはい、お気の毒だよー」

(あんた……!!)

巧の気の抜けた返事に、拓也はぎゅっと拳を握り締めた。ちゃんと身体があれば、ぶん殴ってやりたいほどの衝動に駆られる。
彼はその感情を押さえつけながらも、搾り出すように一言、つぶやいた。

(明日も生きてられるかどうかなんて、その時になんなきゃわかんないもんだっての……)

「ん……?」

(もうおれはあねごと視線を合わせることもできない。明日でいい、明後日でいいと思ってるうちに、こんな風になってからじゃ遅いんスよ。何年も、何十年も、好きだって気持ちだけずーっと抱え続けて、何度も頭おかしくなりそうになって。)

脅すつもりの言葉ではない。同じ人物に恋をした者として、せめてもの忠告の言葉だった。
言葉を重ねる度、声が震える。
自分が孤独だということを強く実感し、胸がきつく締め付けられる。

「……ごめん」

巧の口調に、若干の戸惑いが混じる。
拓也の気持ちが完全に理解できるわけではない。いや、理解できるはずがない。
そう自分で気づいた時に、巧は好奇心からではなく、真正面から拓也と向き合うことしかできなくなった。

(おれ、あねごのことをいつまで待ってりゃいいのかな……?もうヤだよ、こんな所に独りでいるのは……)

「……キミさ、」

巧が、拓也の頬に不意に手を伸ばした。

(ん?)

「幽霊でも泣くんだね、やっぱ」

巧の指先は、拓也の涙を拭うことはできなかった。

(そりゃ泣くさ。あねごのこと、大好きだもん……)

「うん。ボクも、大好きだなぁ」

のほほんとした口調で呟き、拓也の隣に腰を落とす。
巧は拓也の顔を仰ぎ見て、しばし何かの考え事に頭をめぐらせた。

「ねぇ、どーすりゃいいのかな?」

(何が?)

「キミが満足するには。あねごと話せればいい?」

(……一日でいいや、そういう時間があればなぁ。でもそんなこと言ってもさぁ……)

拓也は自分の名が彫られた墓石を、忌々しそうに睨みつけた。
霊体というのはひどく不安定なもので、その存在を維持するには自分と関わりの深い何かと引き合う力が必要らしい。
早苗が自分に気づいてくれさえすれば、あるいはこの場を離れることもできたのかもしれないが、それが叶わない拓也にとって、この霊園は牢獄と同じだった。

「幽霊だったら、ボクにくっついてこれない?背後霊とか守護霊とかっているじゃん。あんな感じでさ」

(へ!?そんなのやったことねぇし、無茶だって!)

「やってみよーよ。んで、二人であねごをモノにするんだよー!」

巧の声は、先ほどと同じく子供のような好奇心に満ち溢れていた。
拓也は彼の無邪気な瞳をじっと覗き込んだ。

――同じ人を好きになったもん同士。こういう出会いも、何かの縁っていうのかなぁ。

しばらく沈黙した後、やがて拓也は観念したように息を吐いて、

(ありがと。でも、どうなっても知らねぇッスよ?)

「ドーンと来なって♪」

巧は立ち上がると、すっと手を拓也に差し出した。
どこかまだためらいがちに、恐る恐るその手を取ろうと拓也が手を伸ばそうとする。
太くて短い指が小刻みに震えている。

その時、二人の――正確には巧の背後から、苛立った顔のイヌ族の青年が近づいてきた。

「いつまでも何やってんだよ巧!?こんなとこの駐車場でいつまでも待たされる俺の身にもなれっての!」

「げ、けんすけぇ!?」

そういえば、酒を飲んで運転のできない巧をここまで送ってきたのは健介だった。
拓也と話していてすっかりどうでもよくなっていたが、ずっと車の中で待たせてしまっていたのを思い出した。
巧は慌てて振り返った拍子に、拓也の墓石の角にかかとをぶつけ、大きくよろめいた。

「んわっと……!?」

(ちょ……!!)

大きく目を見開いた拓也の視界いっぱいに、巧の大きな背中が倒れかかってくる。

……ごっ。

頭を打つ鈍い音がして、巧と拓也の意識は真っ暗な闇の中へと落ちていった。


――昔、一人で歩いてたらおれたちと張り合ってたグループの連中に絡まれちまったことがあったっけ……

ボコボコに殴られて、気ィ失って倒れてると、いきなりぽんぽんってお腹叩かれて。

目ぇ開けると、さっきの連中を追っ払ったあねごがため息混じりに『まったく、大丈夫かい?』なんて声、かけてくれたんだよなぁ。

拓也は、真っ暗になった意識の片隅でそんなことを思い出していた。
少し、意識がハッキリしてくる。
まぶたの向こう側が明るくなっているのがわかる。

――えっと、確かおれ、巧に背中から押し潰されそうになって……

巧とぶつかった後の記憶がないが、どうやら自分はどこかで横になっているらしい。
軽い頭痛を感じ、額に手をやる。

「う……う〜ん……」

拓也は苦しそうにうめきながら、重いまぶたを開けてみた。途端に差し込む蛍光灯の光が眩しくて、目をしばたかせる。

――ん、蛍光灯……?ってことは、ここは墓地じゃない?

ハッと気が付いて、自分が寝ている場所を手でさする。久々に感じる、サラサラとしたこの床は何と言うのだったか。
そうだ、畳だ、と思い出す。
どうやら、墓地から抜け出すことに成功したらしいと気づく。だが、巧の姿が見当たらない。

上半身を起こしてキョロキョロと辺りを見回すが、どうやらここはテレビとテーブルが置かれている小さな和室ということがわかるのみで、他に人影はない。

「あれ。ここ、どこ……?巧……?」

自分一人の力では墓地からは移動できない。ここにいるということは、巧の助力があったはず。
しかし、いくら見渡してもその姿が見えないことに拓也は困惑した。

「……まったく、大丈夫かい?」

――え?

拓也の混乱に追い討ちをかけるかのように、よく通る鋭い声と共に部屋のふすまが開いた。

「……っ!!」

すたすたと部屋に入ってくるトラ族の女性の姿に、拓也は絶句した。
見間違えるはずがない。
さっき、自分の墓参りに来てくれた早苗だった。
すでに黒のライダースーツではなく、拓也にとっては初めて見る緑の和服に着替えている。

「あ……あぁっ、あねごっ……!!」

「何だい、幽霊でも見たみたいな青い顔して……」

早苗は、はっきりと自分を見ている。拓也が霊体になってから、一度もなかったことだ。

「いや、幽霊はおれでしょ……!?」

「はぁ……?」

「だ、だっておれ死んじゃったから、あねごには見えないはず……」

早苗は怪訝そうに首をかしげると、拓也の前までやってきて、彼の額に手を当てた。

「ひっ!」

ビクリと全身の毛が逆立つ。

――あねごの、手だ……

暖かい手。確かに自分に触れている。
夢のようだった。とろけるような幸福感に、涙が溢れそうになる。もはや理由などどうでも良かった。

「あねご……」

「んー。熱はないみたいだねぇ」

早苗は手を離すと、テーブルの上に置かれた急須でお茶を入れ始める。

「しかしアンタも相当酔い潰れてたらしいねぇ。健介に驚いて墓石に頭ぶつけたんだって?」

「え……?」

「アンタ重いから、車まで運ぶのに苦労したってよ?」

ケラケラと笑いながら、早苗はコップにペットボトルの麦茶を注いでいる。

――ちがう、驚いて転んだのはおれじゃない、巧だ……

「まさか……」

拓也は恐る恐る、顔の前に自分の手をかざしてみた。
太くて短い指は、自分と似ている。だが――その毛色は拓也の茶色ではなく、濃紺。

「!?」

慌てて飛び起きると、窓ガラスに駆け寄る。

「えぇぇぇぇっ!!!」

ガラスに映っていたのは、自分ではなく、大柄なパンダの姿――巧の姿だった。

「なんで!?どーして!?」

両手で自分の頬をむにむにとつねってみるが、それは間違いなく巧の顔だ。

「わああぁぁぁっ!!」

「ちょ、どうした!?本当に気でもふれたのかい!」

「どーしたもこーしたも、だっておれが巧であねごがいて、何がなんだか……」

拓也がパニックに陥りかけたその時、突然彼の頭の中に、のんきな声が響いた。

(ありゃー、また面白いことになっちゃったねー)

「!?」

こんな状況だというのにまるで緊張感の感じられない、巧の声。
だが、拓也がいくら周囲を見渡しても、その姿はどこにもない。

「え、なに?どこ?」

(にゃはは、探しても見えないよ。これアレだよ、ぶつかった時のショックで拓也の魂がボクの中に入っちゃったんじゃないの?)

「うそ、そんなのできるの!?」

(ボクに言われても。ま、結果オーライじゃない?お墓を出られてあねごに会えたんだし〜♪)

「いや、そうは言ってもこんな……」

(あー、待って。とりあえず口にチャックした方がいいかも)

「え?」

(あねごにおかしくなったと思われちゃうの、ボクのほうだし〜)

「あ……」

「巧……」

早苗は本気で心配そうな――というか残念そうな顔で、凍りついていた。
冷や汗をダラダラとたれ流しながら、拓也は口をあぐあぐさせながら弁解の言葉を探す。

「あー、いや、えーっと……これはー……」

「うん、いいよ。何も言うな。わかってる……よほど打ち所が悪かったんだね。明日、ちゃんと脳外科に行っといで。脳みそをほじくり出して綺麗に掃除してもらうといいよ。スケベも治るかもしれない」

やたらと優しい口調でさらりとキツいことを言って、早苗は拓也――彼女自身は巧だと思い込んでいるのだが――を、手際よく畳の上に寝かせて毛布をかけた。

「ち、ちが……俺は巧じゃな……」

拓也の弁解に聞く耳ももたず、そのまま早苗は逃げるように部屋を出ていった。

「……どーすんの、これ……」

むっくりと布団から起き上がり、力なく呟く。

(ま、いーんじゃない?とりあえず、いくらでもあねごと話せるんだし。生きてるんだからさ)

「生きてる……」

拓也は改めて、その丸々とした手を握った。
巧の、いや、自分の体温がわかる。

「そっか。生きてるんだよな……おれ……」

拓也は窓の外に広がる夜闇に舞う、何匹かの蛍をうっとりと見つめた。


翌朝。楽運荘の露天風呂、鼓はひとときの幸せに浸っていた。

「ふぃ〜……っす……」

まどろんだ表情で、鼓は湯の中にゆったりと足を泳がせる。

一日の始まりは朝風呂から。まだ宿泊客には開放していない早朝なので、露天風
呂は貸し切り状態だ。
鼓が極楽気分で鼻歌を歌っていると、不意に脱衣場から物音が聞こえた。

「ん……?」

脱衣場の曇りガラス張りの扉越しに、ずんぐりとした大きな人影が見える。
時間を勘違いしたお客さんだろうかと思ったが、やがて扉を開けて姿を見せたの
は、鼓のよく知る人物だった。

「あれ、半田さん?」

「わっ、人がいた!!」

気まずそうに立ち止まる巧に、鼓は露天風呂から半身を乗り出し、首をかしげた。

「何言ってんすか?この時間のお風呂はずっとおいらのターンっすよぉ……」

早朝の露天風呂は鼓のテリトリーだというのが、楽運荘で働く者の間では暗黙の了解となっている。
鼓は自分で風呂の清掃を行い、そのまま一番風呂をいただくのが日課なのだ。
貸し切り状態の入浴タイムを邪魔されたことで、鼓は少々不機嫌そうに口を尖らせた。

「半田さんこそ珍しいっすね、こんな時間に来るなんて」

「あぁ、いや、久々にお風呂に入ってみたいなぁと思って……」

「久々?……って、いつからお風呂入ってないんっすか?」

「それがもう、最後に入ったのはいつだったか記憶にないぐらいで……」

「はあ!?」

不精な人だとは思っていたが、まさか風呂にすら入らない人だったとは。
鼓は露骨にドン引きし、ばしゃばしゃと湯の中を後退りした。

「なぁ、おれも入ってもいいかい?」

「えっ!?あぁ……いいけど、しっかり体洗ってからにしてくださいっす!!」

「はーい」

鼓に言われた通り、巧は露天風呂の横の流し場で身体を洗い始めた。
やたらと丁寧に身体を隅々まで磨き、石鹸の匂いに嬉しそうに目を細める。

「なんか……変っすね……」

いつもの巧にしては、妙に素直で邪念がない。
鼓の知っている巧は、もっと大雑把でいい加減で、だらしない男のはずだ。
健兄ぃの誕生日を台無しにされた日のことを、鼓は今でも根に持っている。

鼓はお湯から頭だけを出し、まじまじと疑わしげに巧の姿を見つめた。
姿形はいつも見ている巧のはずだが、なぜかまったく知らない人物に思える。

「ん、どうかした?」

鼓の視線に気付き、巧は身体を磨く手を止めた。

「いや、あの……なんか今日の半田さん、変じゃないっすか?」

思いきって切り出された鼓の問いに、ギクリ、と巧の身がすくむ。

「な、なんで」

「なんとなくっすけど……」

「そ、そうかい?おれはいつもどおりだけど……」

「半田さん、一人称、おれでしたっけ?」

「うっ、あっ……」

「さては……」

鼓にじーーっと見つめられ、巧の全身から嫌な汗が吹き出す。

―まさか、俺が巧の身体を使ってることに気付かれたか……?

巧自身の意識は、今は眠っていた。そのため、目の前のタヌキ族の少年に対してどういう対応をすべきかもわからない。

胸を押さえて狼狽する拓也=巧に、鼓はビシリと指差した。

「半田さんっ!」

「ひっ……!」

「……さては半田さん、男らしくイメチェンってとこっすか?」

「は……」

「ダメダメっす。一人称変えたぐらいじゃ男は上がらないっすよ〜」

「いや、一応、中身丸ごと違うんだけど……」

「またまたぁ♪そんなんじゃ早苗姐さんにも振り向いてもらえないっすよ♪」

いたずらっぽく笑いながら、鼓は湯から上がった。

「お先に。半田さん、お風呂どーぞっす」

大きな尻尾を勢いよく振って、まとわりついたお湯を吹き飛ばしながら、鼓はぽてぽてと露天風呂を出ていった。

「……びっくりしたぁ」

拓也はドキドキと早鐘を打つ胸を押さえながら、ちゃぽんと足を湯に浸けた。

―温かい。

見上げる空にはキジが舞い、少し冷たい風から逃げるように拓也は、巧の体を湯に浸けた。

「おれは……生きてる……」

何度となく頭の中に浮かぶ言葉を口に出す。

―そうだ、おれは生きてるんだ。

締め付けられるような感覚に、胸を押さえる。

ざぁっ、と木々が揺れた。

風が、変わった。


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