第2話
「鼓の立場が・くらいしす!」


新青草国際空港。

最近改修工事を終えたばかりのその空港のロビーで、一人の少女が誰かをじっと待っていた。
種族はタヌキ族。
基本的に小柄な種族であり、彼女もまた、その類に漏れず小柄である。
清楚な顔立ちと、不思議な深みを湛えた青い瞳。
派手ではないが、ピッタリと決まった白いブラウス。
そして彼女が待ち人を探して周囲を見渡すたび、頭の後ろで細く束ねた髪がふわりと揺れる。
なんとなく、西洋人形を彷彿とさせる美しさを漂わせていた。

「遅いですわねぇ……」

彼女が高価そうな銀の腕時計を見て、しっとりとした声で呟いた。
その時である。

「君、待ちなさいっ!」

「こら、待てと言っている!!」

空港の警備員の怒声と、何かを猛烈な勢いで追いかける足音が聞こえてきた。

「あら、何の騒ぎ……?」

二人の警備員が、人混みを掻き分けて走ってくる。
彼らの追っていた人物を見て、少女は思わず叫びそうになり、口を押さえた。

「やっと捕まえたぞ、クソガキめ」

「部屋で事情を聞こうか」

「離せ、このっ!無礼な連中め!!この俺を神楽震太郎と知っての狼藉か!」

「知るかボケ!」

「狼藉者はおまえだろうが!」

やっとのことで取り押さえられ、二人がかりで地面に組み伏せられていた一人のタヌキ族の少年がじたばたと足掻いていた。

神楽震太郎。

歳は18歳程度に見えるが、妙にプライドに満ちたその顔つきは、自分を取り押さえている警備員たちを威圧するほどの鋭さを持っていた。
そして、元来日本にしか起源を持たないタヌキ族としては珍しい、金色の髪。まるで獅子のたてがみのようですらある。
そう、まさしく彼こそが……

「お兄様……!」

思わず声を上げた少女に気づき、その震太郎が顔を上げた。

「おお、かなでか!会いたかったぞ!」

「私もです。でも、まさかこんな……」

かなでと呼ばれた少女は、悲壮感いっぱいに瞳を潤ませ、震太郎から目を背けた。

「……こんな、久々に再会したお兄様の姿が、警備員にずるずると見苦しく連行されていくところだったなんて……!」

「か、かなで……これはだな……」

「詰めが甘いのは相変わらずですのね……!」

かなでは厳しい表情で振り向くやいなや、兄の頭上目掛けて小さな丸い物体を放り投げた。

「かなで、それはーーっ……」

ぼふんっ!!

空中で弾け飛んだその物体は、周囲一面を真っ黒い煙で覆い尽くしてしまった。
黒煙を思いっきり浴びた震太郎と警備員たちが大きくむせ返り、その場にいた多くの人々が何事かと悲鳴を上げて騒ぎ出す。

「げふっ!げふんっ!!」

「きゃあぁぁっ!!」

「なんだ、テロか!?」

「ウソでしょ!?いやあぁぁっ!!」

「今、見るからに怪しい黒服の男が向こうに逃げて行きましたわ……!」

「なんだと、その男を捕まえろ!」

まさに阿鼻叫喚。右へ左への大騒ぎである。
その混乱に乗じて、神楽兄妹はその場を逃げ出すことに成功した。

この、一年前に開港したばかりの空港には大型のショッピングモールが併設されており、今日も多くの人で賑わっている。
彼らは咄嗟にその中に身を隠した。

「助かったぞ、かなで……って、げふぅっ……!!」

ばしぃっ!!

礼を言い終わらぬうちに、かなでの平手打ちを食らった震太郎はカッコ悪く吹き飛んだ。
ショッピングモールの買い物客が、邪魔そうに彼の体を避けていく。

「な、何を……」

腫れ上がった頬を押さえて涙目になる兄を、かなでがびしりと指差した。

「お兄様。帰国早々に騒動を起こすなんて、それでも我が神楽家の跡取りですか?おかげで空港は大混乱です……!」

「いやそれ、半分はおまえのせいでは……」

「お黙りなさい。この件を『なかったことにする』のに、いったいどれだけの資金を浪費しなくてはならないことか。
そもそも、お兄様はなぜあのように追われていたのですか?」

「それにはマリアナ海溝よりも深く、エベレストよりも高い、それでいてナスカの地上絵に匹敵する複雑怪奇な事情があるのだ、妹よ」

「どういうことです……?」

よろめきながらも身を起こし、震太郎は深刻そうな表情でこれまでの経緯を話し始めた。

「アメリカから帰国したまでは良かったんだが、入国検査の時に金属探知機にこれが引っ掛かってしまってな」

彼は首に下げた、シルバーの十字架のペンダントを取り出した。

「『この俺をこんなことで足止めするとは、頭が高い』と、そう言ってやったんだが、あろうことかあの愚かな係員は、俺にこの首飾りを外すように指図してきたのだ……」

「まぁ……」

「これは亡き母上の形見。何があろうと決して離すわけにはいかない……だから俺は、俺の道を進んだまでというわけだ」

「つまり、検査をすっぽかして無理矢理入国したのですね……」

「その通りだ」

「なんてことを……」

偉そうに胸を張る兄の態度に、かなでは思わず口を押さえ、その場でくらりとよろめいた。
そして、震太郎の手を握って目を輝かせた。

「……素晴らしいですわ!それでこそ神楽家の後継者……!」

「ふははっ!そうだろうそうだろう!」

大威張りでふんぞり返り、彼は大きなお腹を軽く叩いた。

ポンッ…………♪

「では行くぞ、腹鼓師の総本山へ……!」

神楽震太郎。
彼もまた、若き腹鼓師だった。

「し……失礼しますっ」

その日、小田貫鼓はひどく緊張した様子で、その白い神社のような建物の鳥居をくぐった。
鳥居の前で待ち構えていたタヌキ族の老人が、彼ににっこりと微笑みかけた。

「待ってたよ、小田貫……鼓くんだね。はるばるようこそ」

神社の神主が着るような、白い法衣に身を包んだ柔らかい物腰。
たれ目気味の眼がどこかあどけなく、黄土色の長めの毛皮が風にそよいでいる。
彼は腹鼓師協会の中でも最上級の腹鼓師に与えられる「神鳴(かみなり)」の称号を持つ一人で、その名を絹田轟といった。

彼の案内で建物の中に通された鼓は、ガチガチに固まった動きで長い廊下を歩きながら、やっとのことで声を絞り出した。

「き、絹田先生のことは会報にてよく存じております……!わ、私などがお目にかかることができるなんて、光栄の至りで……」

「これこれ」

『私』やら『光栄』ですときた。
普段使わないようなガチガチの敬語に凝り固まる鼓の柔らかい髪に、絹田が苦笑しながらすっと手を置いた。

「はひっ!?」

「そんなに緊張してどうするね。不自然な敬語など無用じゃ。今日は立場など気にせず、ありのままの君を見せてくれ」

「あ……は……はいっす……」

何でも見透かすような不思議な輝きを持つ瞳で顔を覗き込まれ、鼓はどうにか返事をしたが、まだ緊張を解すことはできなかった。
相手は鼓にとっては雲の上のような存在なのだから、無理はない。

「ふむ……なるほど、まだ余計な力が抜けんと見える」

「す、すみませんっす……」

「じゃ、わしが抜いてやろうか?」

「ひゃぅっ……!?」

いたずらっぽく笑うと、絹田は無造作に鼓の股間に手を伸ばした。
ズボンの上からむにむにとソレを握り、形を確かめていく。

「ふむふむ?玉の大きさもさることながら、なかなか太くて立派なモノと見える。
ほれ、手か口か。どっちで抜いてほしい?」

「それ、抜くって意味が違うっすよぉ〜!……んはぅ……」

「そう言いつつ抵抗せんのか。このエッチめ……」

絹田の指が、鼓のズボンに引っ掛かり、ゆっくりとそれを下ろそうとしてい……

すぱーん!

「ぐぁおっ……」

「それはっ……こっちのセリフっす!」

口より先に手が出ていた。
絹田はヒリヒリと痛む頭を押さえてうずくまっている。

「あー、ごめんなさいっす。でも先に手を出したのは絹田先生っすよ!」

「うむ……今のは効いた。しかし抜けたじゃろ?無駄な力」

「う……」

鼓は思わず赤面した。
肩の力は確かに抜けたが、股間に変な力が入ってしまっている。

「ははは、証城寺から聞いた通りじゃ。無垢なワラシじゃのぉ」

絹田は優しく笑うと、鼓の頭をふわりと撫でた。

「あ……あの……なんか、腹鼓師協会の偉い人って、もっと恐いイメージがあったんすけど……」

「そんなのは証城寺のアホだけじゃ。それにその証城寺も、実際は真面目そうに気取ってるだけじゃよ。
奴の場合はワシより酷いじゃろ。聞いた話ではいきなりおまえを押し倒して部屋に連れ込んであんなことやこんな……」

「だーーっ!それ以上は言わなくていいっす!」

ていうか、どっちもどっちだ。鼓は喉の奥まで出かかった言葉を飲み込んだ。

「ほっほっ♪可愛らしいのぉ」

「なんか……偉い腹鼓師さんって……ただのスケベダヌキの集まりなんっすか……」

「うむ。そして今日、うまくいけば君もそのスケベダヌキに一歩近づけるというわけだな」

「やめてくださいっすよ〜……」

そんな言葉を交わしながら、二人が渡った長い廊下の先の部屋の障子の横には、こんな看板が立て掛けられていた。

『腹鼓師協会 昇格試験会場』

腹鼓師には『見習』から『神鳴(かみなり)』まで、十段階の段位がある。
段位によって腹鼓師としての権利や責任が変動し、鼓の現在の段位である『名取』では、公の場での腹鼓の演奏が無報酬の場合に限り可能といった程度だった。
そして今日の昇格試験に合格すれば『印可』の段位に進むことができる。
そうすると、腹鼓の演奏で報酬を得ることが可能になるのだ。
事実上、プロということになる。

「……」

いざこの場に立つと、自然と緊張感が高まる。鼓はゴクリ、と生唾を飲んだ。

「自信の程はどうだね?」

「……あ、大丈夫、いけるっすよ」

この日のために毎日稽古に励んでいたのだから。

「そうか、イけるか……」

「はいっす……って!」

ばちこーん!

鼓の股間に再びさりげなく手を伸ばそうとした絹田の顔に、鼓の蹴りが命中した。

「ぐふぅっ……!」

と、漫画の主人公にやられた小悪党のような叫び声を上げ、絹田は障子を派手に突き破り、中の和室にボウリングの玉のように転がり込んでいった。

「い、イけると言うから……」

「そっちの意味じゃないっすっ!このエロジジイ!」

もはや立場など関係ない。握り拳をぷるぷると震わせ、鼓が怒鳴った。
温厚な鼓にここまでさせるのだから、たちの悪さは証城寺など比ではない。
その絹田が尻のホコリをはたきながらのっそりと起き上がると、突如建物の外から轟音が響いた。

ばばばばばばっ!!

「うわ、何っすか?」

「ふむぅ、もう一人が着いたようじゃの」

「もう一人?おいら以外にも試験受ける人が?」

「うむ。王子様じゃ」

「はぃ……?」

鼓が廊下の窓から身を乗り出すと、閑静なこの地に不釣り合いな小型のヘリが今まさに着陸しようとしていた。

「な、なな……?」

ヘリの機体側面には金色の文字で「神楽グループ」と書かれている。
この世界で知らない者がいないと言っても過言ではない巨大企業だ。
100円ショップの経営から宇宙開発事業まで、その活動は幅広い。
やがて着陸を終えたヘリから、真っ黒い服に身を包んだ人が飛び出してきた。
彼は忍者のような身のこなしで建物に入り、赤い絨毯を敷きながら鼓たちのいる和室まで驚異的な速さでやってきた。
そして部屋の前まで絨毯を敷き終わると、小脇に抱えたラジカセから唐突に仰々しい音楽を流し始めた。
どうやら黒子らしい。

ぱーーん ぱーーん ぱーーーん でっでーーん♪
ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ、ぱーーん……♪

「……なんで『2001年宇○の旅』のテーマ音楽なんっすか……」

鼓がげんなりとツッコミを入れた時には、もう黒子はいなくなっていた。
そして、赤い絨毯に彩られた長い廊下の向こうから、『彼』は優雅な足取りでやってきた……!
キラキラと輝く髪をなびかせ、覇気に満ちた表情。
およそ腹鼓師のイメージからは及びも付かない、純白の高級そうなタキシード。
どうせ着替えるのだからと、普段着のTシャツと短パンだけでやってきた鼓とは大違いだ。
しかもご丁寧に、後ろから強烈な後光まで射している。ような気がする。
彼は廊下の先の絹田に目を向けると、開口一番に言った。

「待たせたな。この神楽震太郎、確かに来てやったぞ」

仮にも腹鼓師協会のトップに位置する絹田に「来てやったぞ」ときたものだ。
鼓は自分の「エロジジイ」発言を棚に上げ、驚いて目を見張った。

「ふん、相変わらずの生意気王子っぷりじゃのう」

絹田が鼻で笑う。
プライドに触れたのか、震太郎は更に生意気な態度を取った。

「その生意気王子が、今日こそおまえから昇格を認められに、わざわざ来てやったと言っているんだ」

「貴様のような口先だけのチンケな小僧にくれてやる段位などないわっ」

「……ほほう?」

「……何じゃ?」

鼓は、自分たちのいる和室が全焼してしまいそうな勢いの炎に包まれているような気がして恐れおののいた。
自分だけが違う世界の住人で、まるで二人のことを映画館でスクリーン越しに見ているような気さえした。

「あ、あのぉ……」

ビクビクと声をかける。

「む?」

震太郎が、初めて鼓に気づいたかのように首をひねった。

「何だ、このみすぼらしい小僧は」

「み、みすぼらし……!?」

これにはさすがにカチンと来た。初対面の同じ年頃の相手にこんなことを言われる筋合いはない。

「あの!誰だか知らないっすけどおいらは……」

「よぉし、わかった!」

震太郎はビシッ!と指を立て、鼓を制した。

「ほら小僧。これでもっとちゃんとした服でも買うがいい……」

震太郎は憐れみをたっぷり込めて話しながら、ポケットから一万円札を取りだし、鼓にピンと差し出した。

「なっ……」

鼓の顔が瞬時に赤くなった。
馬鹿にするにも限度がある。鼓は頭の中の何かが切れそうになるのを、驚異的な自制心で抑え込んだ。
普段の楽運荘で、もっとタチの悪い酔っ払った客の相手をすることを思えば、まだ許容範囲だ。

……もっとも、健兄ぃならぶん殴ってるとこっすけど……

「何かと思えばただの世間知らずっすか。何でもお金で解決できるとでも思ってるんすか?」

鼓が腕を組んで凄んでみせた。
震太郎も対抗し、鋭い視線を鼓に向ける。

「絹田先生?この無礼な庶民は何なんだ?」

「絹田先生!この失礼なバカ殿は何なんっすか!?」

ほぼハモりながら、二人して絹田に詰め寄った。

「なんというか、今日の腹鼓師昇格試験の受験者二人。それがおまえらじゃ」

「ほぉ。するとこの憐れな庶民は俺の前座というわけか」

「それはこっちのセリフっすよ。このバカ殿!」

「バカと言った方が、バカなんだぞ?」

「ど〜ぞ。話の都合でぱっと出てきた新キャラに黙って出番食われるほど、おいらもお利口じゃないっすからね!」

「なんだと……?」

「なんっすか……?」

そんな下劣な言い争いが繰り広げられる中、絹田がおもむろに二人の股間目掛けて両手を伸ばした。

「うぉっ!!」

「んにゃっ!!」

「……鼓、残念だがおまえの負けじゃ。震太郎の方がデカい」

すぱーーんっ!!

「そんな理由で納得できるわけないっすー!!」

張り倒された絹田は、ピクピクと蠢きながらもう一つの提案をした。

「なら、こういうのはどうじゃ……」

「なんすか?」

「言ってみろ」

「特例として今回の昇格試験、どちらか優れた腕前の一人だけを『印可』に昇格させよう」

「望むところっす」

「本来こんな小僧との勝負など、行う価値もないのだが……」

「む……」

「はっきりと次元の違いを見せてやらないと納得しないようなのでな……」

「その大口を二度と叩けなくしてやるっすよ」

こうして、二人の若手腹鼓師の見苦しい戦いの火蓋は切って落とされたのだった。

→第3話「神楽いばる!彼ライバル!?」

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