第三話
「ヘタレわんこのディープハグ」


楽運荘の大浴場は、文字通り大きかった。
身体と頭を洗い終えたリュウは改めて浴場を見渡し、その広さに感嘆していた。
内風呂の浴槽は大小二つと、水風呂が一つ。
水風呂の横にはサウナ室もある。

そういえば受付に、宿泊客以外でも別料金を払えば温泉のみの入浴も可能だと書いてあった。
それだけに、ちょっとしたスーパー銭湯にも遜色を取らないだけの設備を備えているようだ。
淡い緑色のタイルが敷き詰められた床や壁は大事に磨かれているようで、綺麗な光沢を見せている。
壁にかかった時計によると、今は午後3時を回ったところだ。
昼過ぎという時間帯ゆえか、リュウとコウ以外に客はいないようだ。

「おまたせ、リュウ〜」

身体を洗い終えたコウが、リュウの背中に歩み寄ってきた。
おう、と軽く返事をして振り向く。

「……っ!!」

まだ湯に浸かりもしていないはずのリュウの顔が、一気に赤く火照った。
リュウの視界に入ったコウは、頭にタオルをバンダナのように巻いていた。

一枚しか持っていないタオルを頭に――と、いうことは。
リュウは反射的に視線を落としていた。

大きな、柔らかいお腹をさらに下り、コウの局部が視界に映る。

……短くて、太くて……

そこまで考えて、リュウは自分の貪欲な思考を嫌悪した。
ゴクリ、と生唾を飲んで視線を上に戻すと、コウの冷ややかな瞳とぶつかった。

「どこ見てたの、今」

「い、いや、だって、これはその……」

ぶっちゃけ、今までだって見たことあるし、だいたいコウは隠す気すらなかったじゃないかっ
……と思っても口には出せなかった。

「もう。リュウのスケベっ!」

と言いながらも、コウとて本気ではない。
それにごまかされたところで、腰に当てているタオル越しでもわかるほどに、リュウのそれは硬く大きくなっている。
リュウは素直すぎるのだ。
コウはそんな彼を、少しからかってみたい衝動に駆られた。

「……にゃは。真っ赤になっちゃって」

コウは笑いながら、リュウの鼻先をツンと押した。
いたずらっぽい目で、リュウの赤く澄んだ瞳を見つめる。

「こ、コウ……?」

トン、と、コウの指先がリュウの胸板に触れた。
それだけでビクリと身がすくみ、心臓が止まりそうになる。

「今……誰もいないよ?」

リュウの胸板から腹部へと、コウの柔らかい指先が滑っていく。

誰もいないから何なんだ。
そう思いつつ、コウの手の行く先を想像して生唾を飲む。

「リュウ……」

甘く囁いたコウの指先が、タオルの上からリュウの局部に触れた。

「こ……こんなとこじゃまずいって……」

「そうかな……?リュウのここはそう言ってないけどなぁ」

焦らすように、コウの指がタオルの上で踊る。
……どこでそんなこと覚えてきたんだ、このエロゴールデンレトリバーはっ。
リュウは必死に頷きながらも、その後起こるであろう事態を想像して目をつぶった。
が、リュウの期待はいとも簡単に打ち砕かれた。

「……そうだよね!まずいよね〜!」

急ににぱっと笑うと、コウの手はあっさりとリュウの身体を離れた。

「へ?」

「じゃ、ぼく露天風呂行ってくるから〜!」

コウは大きなお腹を揺らして元気に外に出ていった。
リュウをその場に置き去りにして。

「えっ……ちょっと……あの……」

愕然と肩を落としたリュウの手からタオルが床に落ち、彼のそれが姿を見せる。
……すっかり萎えていた。
落胆が徐々に怒りに変わり、肩を震わせる。

「こら待てコウ〜っ!」

慌ただしく、露天風呂に駆け出した。


楽運荘の真髄は露天風呂にあり。

外に出たリュウは、目の前に広がる露天風呂の大きさに目を丸くした。
ゴツゴツとした岩肌に囲まれ、天然の温泉そのままの形を残している。
山間を吹き抜ける風が爽やかで、直前まで感じていた怒りを忘れそうになる。

リュウは温泉の中にコウの姿を探した。
温泉の中央には大きな岩が露出しており、その影に隠れるように丸っこい人影が見えた。

「あ〜あ。あれでも隠れたつもりかね……」

白い湯気が立ち込めていてはっきりとは判別できないが、太い腕やお腹がはみ出しているのが見える。
リュウはにやりと笑うと、できるだけ音を立てぬように気を配りながら湯に入った。

……いきなり抱きついて脅かしてやるっ

さっきの仕返しだ。それぐらいやってもバチは当たらないだろう。
リュウは慎重に近づき、人影と対になる位置でピッタリと岩に背中を押し付けた。
まだ、気付かれた様子はない。
リュウは一度深呼吸をすると、岩陰から勢い良く飛び出した。

「やいこらコウっ!!」

一気に正面に躍り出て、人影に飛びかかる!

むぎゅっ。

リュウの腕が、丸々としたそのお腹をぎゅっと抱きしめた。
更に、これでもかと、胸元に顔を埋める。
相手は突然の出来事に狼狽した様子で硬直してしまった。

――コウの奴、驚いて言葉もないか……

胸に押し付けていた顔を上げる。

――ん……?
そのお腹に、妙な違和感を感じた。
微妙に毛皮の色や、腹の弾力がコウとは違う。
コウのお腹は大福のような柔らかさだけど、自分が今抱きついているお腹は張りが強く、まるでゴムボールのようだ。
嫌な予感がした。

「あ、あの〜……」

ためらいがちにかけられたコウのものではない声に、リュウの全身の毛が逆立つ。

――まさか。

恐る恐る頭を上げると、その人物の困ったような笑顔が目に入った。

「ひっ……!!」

情けなく裏返った声を上げ、バシャバシャと激しい水しぶきを立て、大慌てで後ずさりする。

「つっ……つつつつ鼓さんっ……!!」

「あは。どうかしたんすか?」

鼓はお腹をさすりながらリュウに笑いかける。
……事態はさらに追い討ちをかけた。

「……リュウ」

リュウの背後から冷たい声が聞こえた。
ガクガクと震えながら、恐る恐る振り向く。やはりコウだ。

「こ、コウ……これは、その」

「えっとね。入り口の裏側に柵があってね、綺麗なんだ。山も田んぼも一望できて」

コウは口元に笑みを浮かべながら、淡々と告げる。
言葉に抑揚もなければ、目も笑っていない。

「うんうん、露天風呂の風景は楽運荘の名物っすから♪」

鼓が何やら同意しているが、リュウの耳には届いていない。

「……でね、リュウにも教えてあげようと思って呼びにきたらさ」

その先は言わずともわかる。

「ち……ちがっ……コウ、誤解なんだ……」

「うん、誤解だよね♪」

コウの言葉に、リュウはほっと息を吐く。

「ぼく誤解してたよ。リュウってもっと真面目だと思ってたのに、まさか誰彼構わず手を出す人だったなんてさ……」

「ち、ちがあぁぁぁうっ!!」

「ほえ〜。最近の高校生ってそこまでマセてんすか……」

一年前まで高校生だった鼓が、珍しい虫を見つけたかのような好奇心に満ちた目でリュウを見つめた。遠巻きに。

必死に弁解を繰り返したリュウが、コウの
「いや、最初からわかってたんだけどね、リュウをからかうのが面白くって。ごめんね♪」
との言葉に呆然とするのは、それから三十分後のことだった。


「もー知らねー……」

ぶっきらぼうな口調で呟くと、リュウは顔の下半分を湯に沈めてブクブクと息を吐いた。

「悪かったって〜、機嫌治してよ〜」

「ほら、若気の至りってやつっすよ〜、よくあることっす。盗んだバイクで走り出すよりはマシじゃないっすか?」

何か言ってることが激しくズレている気がするが、二人のふんにゃかとした顔に挟まれ、ますます妙な居心地になってくる。
なるほど確かにコウと鼓はぽってりとした体格も、柔和な雰囲気もよく似ている。
湯煙で顔が見えず、間違えたのも無理はない。
……と、リュウは自分自身を無理矢理納得させた。言い訳だ。

「鼓さんは今、休憩時間なんですか?」

「え?いや、まぁ……そんなとこっすね」

鼓は何か後ろめたいことがあるかのように視線を反らし、コウの問いかけに答えた。

「あの。さっきはうちの部長が失礼しました」

「いやいや、お節介なことしたおいらが悪いんすから。どうかお気になさらず」

「あれでも、そんなに悪い人じゃないんだけどなぁ」

湯から顔を上げ、リュウが呟いた。

「まぁ、かなり意地汚くてドジでわがままで遅刻常習犯でおバカでデリカシーなくて……」

「なんかすごい言い方っすね……」

「そんな部長だけど一個ぐらいは取り柄が……」

しばらく考えて、コウに何か意見を求めるように顔を向ける。

「え……えっと……」

何かあっただろうかと考えて、コウは苦笑いを浮かべた。

「でも」

口を開いたのは鼓だった。

「部長さんってことは、みんなに信頼されてるんっすよね?」

「んー、まぁ。信頼っていうか、居てくれたら何かと楽しいけどね」

「何もしなくても場を盛り上げられたり、必要とされるのって、すごいことっすよ♪」

鼓はそう言って、少しだけ部長を羨ましいと思った。
自分がもし腹鼓を打てなくなったら。
そうなった時、自分を必要としてくれる人はどれぐらいいるだろうか。
そう考えて不安になったことは少なくない。

……健兄ぃぐらいは、大丈夫かな。

ふっ、と息を吐いた、その時だった。

「つ〜づ〜みぃ〜っ……」

「ひっ!!」

不意に湯煙の向こうから聞こえた声に、慌てて腰を上げた。

風が吹き、湯気が散る。
怒りに肩を震わせるその姿が、鼓を見下ろしていた。

「け……けけけ健兄ぃっ……」

「見かけないと思ったら、また仕事をサボってこんな所に……!」

「ちょっと手が空いたから、軽く汗を流そうと思っ……」

「やかましいっ!さっさと仕事に戻る!」

「は、はいっす!」

鼓は慌てて湯から上がると、リュウとコウに深々とお辞儀をし、大急ぎで露天風呂を出た。


脱衣所で作務衣に着替える鼓に、健介は呆れた声で説教を垂れていた。

「まったくどうしておまえはいつもいつもそうなんだっ!」

「ご、ごめんっす……」

「サボり癖だけは治してくれよ、頼むから。怒られるの俺なんだからよー。」

「はいっす……」

鼓はしょんぼりとしっぽを下げた。
一応、反省はしているのだ。すぐに忘れるけど。
健介としては、鼓のそういうしょげた姿を見るのは心苦しかった。
なんだか居心地が悪く感じ、鼻先を軽く掻いた。
もっとビシッと注意すべきなんだろうなぁ、とは思いつつ、ついつい自分で話題を逸らしてしまう。

「あー、そういえば、おまえの幼なじみのあの女の子から伝言」

「ミナちゃん?」

「今夜、みんなで肝試しやるから付き合えってさ」

「は!?なんでっすか?」

さっぱり訳がわからなかった。

「知らね〜。なんか随分怖い顔してたけど……」

「そうっすか……」

肝試し。
確かに季節柄、高校生がやりそうなことではあるけど。
妙に嫌な予感がした。


→第四話「猫の陰謀」

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