第9話『君とのドーナツ屋』


体育祭が終わった後、部長は教室の黒板に弱々しい字でこう書き残した。

『ごめん、本日の部活は中止。』

「…はぁ…」

しょんぼりと肩を落とし、教室を出ようとする。

ぼふっ。

不意に、部長の頭が大きな柔らかいものにぶつかった。

「…?」

「何やってんだ?」

その声に顔を上げると、見慣れた眠そうな目と視線が合った。

「カオル…」

ぶつかったのは、カオルの大きなおなかだった。
カオルは何気なくおなかをさすったりしている。

「…部活、中止?」

カオルが黒板に目を止めた。
部長はただ、無言で頷く。

「…なんで…?」

「いや、別に…」と答えようとするが、普段は無表情なカオルの、いつになく心配そうな瞳がその言葉を阻んだ。
こらえていた涙が溢れてくる。

「かおるぅ…」

「どーした…?」

カオルはひざを曲げて、部長と目の高さを合わせる。
二人の身長差からは、幼児に話しかける大人といった印象を受ける。
迷子の子供のように泣き始める部長の背中を、カオルはただ黙ってさすった。

「…行くぞ。」

カオルは部長の肩をポンと叩き、外に出るように促した。


二人はそのまま、近くの公園に立ち寄った。
ようやく落ち着きを取り戻し、事情を話し始めた部長の手に、カオルは自販機で買ってきた缶コーヒーを握らせた。

「ありがと…」

「だいたい事情はわかったけど…」

カオルはコーヒーに口をつけながら、部長の横に座った。

「前にミナにふられた時は案外平気な顔してたから、大丈夫なもんだとばかり思ってた」

「ただふられただけなら良かったよ。まだあきらめもついた。でもミナが好きなのは…」

「なるほど。」

「あいつは近くにいすぎるよ…おいらにとっても、ミナにとっても…」

「なんだかなぁ…」

カオルが、困ったように頭をかいた。

「おいら、こんなんじゃもうみんなに会えないよ…」

また部長の目に涙が溢れ出す。

「部長失格だ、おいら…」

「…バカたぬきは、やっぱりバカだな。」

そう言ってカオルは、部長の頭に軽くげんこつをぶつけた。

「おまえは部長だ。みんなそれを認めてるし、これからも変わらない。」

「でもカオル…」

「おまえはバカなんだから、どうせならとことんバカでいいだろ」

「……」

「まあ、何をするのか決めるのはおまえだけど。ともかく、おまえは部長だから。少なくともおれはそう思ってる。」

「…カオル、じゃあ、一つだけ言わせて。」

「ん?」

「今日のおまえ、しゃべりすぎ。」

部長のしっぽが軽く揺れた。

「…こりゃ、まいったな。一ヶ月分ぐらいしゃべったかも…」

「でも、ありがとー。」

ようやく部長の顔に笑みが浮かんだ。

「愚痴が言いたくなったらいつでも言えよ。沈みそうになったらおれが引っ張り上げてやる。」

「おいら、重いよ?」

「じゃ、一緒に沈んでやるから。」

「ダメじゃん♪」

部長は耳をぴくぴく動かしながら、コーヒーに口をつけた。

満足げにそれを見つめるカオル。突然、彼のおなかが鳴った。

「あ」

時計を見ると、6時を過ぎていた。
ふと、部長が財布の中身を確認し始める。

「…よし。」

「?」

「なんか食いに行こう!おいら、おごっちゃう♪」

「…明日は雪だな…」

「む、おごるのや〜めた!」

「冗談だっての」

そんな風に軽口を交しながら、二人は公園を後にした。


その一方では。

「リュウぅ〜!」

帰り道、とぼとぼと歩くリュウの背中を見付けたコウが、どたどたと駆け寄ってきた。
リュウはちらっと横目で見ただけで、返事はない。

「帰るんだったら言ってよ〜。探しちゃったよ。」

「うん…」

「なんか今日は部活も中止みたいだし、どうしちゃったかな?」

「部長も、体育祭で疲れてるんじゃないかな。」

…ウソだ。原因を作ったのはおれとミナじゃないか。

「そっかぁ。生徒会に追い回されてたからねー。そりゃ疲れて当然だよね!」

何も知らないコウは、ほむほむと頷いている。
リュウは思わず顔を背けた。

自分は、大事な友達を騙している。一番隠し事をしたくない相手に。

そう思うと、自分がとことんイヤになる。

おれは…ダメなやつだ。
問題を先延ばしするしか能がないのか。

「…リュウ、聞いてる?」

「え?」

聞いてなかった。

「え?じゃないよぉ…」

「ごめん、考え事してた…なんだっけ?」

「ドーナツ食べに行かない?って聞いたの。シスタードーナッツ(通称シスド)、今日全品100円なの。」

「でも今日はしょく…」

食欲が、と言いたかった。でも。

「行こーよ!」

無邪気に笑うコウを見ると、断れなかった。
リュウは首を縦に振った。

シスタードーナッツは、二人の帰り道を少し反れた繁華街にあった。
学校からも遠くないため、リュウたちと同じ若草色の制服を着た客も多い。特に女子が目立つ。

店に入ったコウは、真っ先にドーナツを選んでは取り始める。
手当たり次第だ。

「おいおい、そんなに食べるの!?」

「にゃはは、ちがうよ。リュウの分も取ってるの。」

「ああ、じゃ、お金はあとで払うね…」

「いいのいいの。今日はおごるよ♪」

「え!」

「だってリュウ、なんか元気ないんだもん。そういうの、ヤだよ。寂しいよ。」

「…!」

…おれは、本当にダメなやつだ。
何が「一人になりたい」だ。自分を孤独に追い込んでどうなる。いつも自分を支えてくれる人がいることに、なんで気づかなかったんだ。

レジで二人分の代金を支払うコウの背中に申し訳なくて、涙が溢れそうになる。

「…リュウ!」

いきなりコウが振り向いた。
湿っぽくなった顔を、慌てて元に戻そうとする。すごくぎこちないかもしれないけど。

「…ごめーん、20円、貸してください〜…」

コウが笑って舌を出す。
お金がないなら、バラバラに払おうか…と言おうとしたが、やめた。
お互いに足りない分は、補いあおう。一緒にいよう。
もう、何も隠さない。独りにはならないし、独りにはさせない。
リュウは財布を開け、10円玉を二枚、取り出した。


「実は、さ…」

席についたリュウは、早速昼間のことを話し始めた。
コウはのほほんとした表情を変えず、ただ黙って耳を傾けてくれた。
話を聞き終えると、適当にドーナツをつまんで、一口かじった。

「なるほどね…」

「おれ、どうしたらいいかな。」

「えっと…ミナはリュウが好きで、リュウは、ミナが好き…?」

リュウは首を横に振った。

「ありゃ?違うんだ。意外かも!」

「へ?」

「両想いかと思ってた。」

「付き合いは長いけどね、特別好きとか、そんな風に考えたことはないなぁ…」

「よかったぁ…」

「はい?」

「や、なんでもないよ!」

ありゃ、口がすべったかな。

コウは慌ててドーナツをかじってごまかす。

「というか、ちゃんと考えたこともなかったし、いきなりキスされてもなぁって。」

「にゃは、そりゃビックリだよぉ。順序まちがえてない?」

「やーっぱそう思うよなぁ?」

「思う思う〜!」

お互いに、困ったように笑い合う。

「なんかやることが極端なんだよなぁ、あのネコ。」

「リュウが悩んでたのは、部長やミナとの関係が崩れちゃうのがイヤだったんだ?」

「うん…」

「そんなに気にしなくて、大丈夫だと思うよ〜。これまで通り、お気楽で♪」

「あとは、コウ…」

「ぼく?」

「…コウがいて、よかった。コウがいなかったら、今頃独りで悩んでるしかなかったと思う。」

「……ぼくは、何も…」

コウが顔を赤らめつつ、首を横に振る。

「でも」と、付け足す。

「リュウを独りにはしたくないから。だからいつも、そばにいるから。」

いつもと変わらない笑顔を見せる。

「…ありがとう…」

リュウが口にいれたドーナツは、いつになく甘く感じた。


ドンガラガッシャーン!!

「何やってんだ、バカたぬき!」

「ひぃ〜、手がすべったぁ〜!!」

そんな物音と声がする方を向くと、やはりというか何というか…

「あ、部長とカオル先輩だ…」

二人とも、床に散らばったドーナツを迷惑そうに片付けてる店員さんに、ペコペコと平謝りしていた。

「あっちも、大丈夫っぽいねぇ。」

コウが笑いながら言う。

「うん、あとは…ミナかな。あとで、ちゃんと話してみようと思う。」

「だね。がんばって!」

「がんばる!」

コウは、満足そうに頷いた。

…二人で、歩いてみよう。