第8話『体育祭の片隅』


徐々に日差しが強くなってきた5月の半ば。
青草高校ではこの時期、体育祭が行われていた。
競技種目の選択や企画運営を生徒が自主的に決める形式をとっているこの学校では、体育祭というより運動会と言ったほうがしっくりくるような種目が目立つ。
運動場では全学年合同競技であるパン食い競争が始まろうとしていた。

「…ふふん!」

参加する生徒の中で、自信満々といった感じでしっぽを立てる生徒が一人。
部長である。
すでにその視線は、数十メートル先に吊されたパンにしか注がれていない。

「あのバカたぬき、運動音痴なくせにこういう種目だけは…」

少し離れた応援席から、カオルが呆れ気味の視線を送る。
その横から口を出すアキホ。

「そういえば部長、昨日必死に作戦立ててましたよ。」

「作戦?」

「どうすればパンを全部自分のものにできるんだろうって。」

「…いや、そういう競技じゃないでしょ…」

「ハングリー精神旺盛ですよねぇ。」

「それ、意味が違う…」

そんなこんなで始まったパン食い競争は悲惨なものだった…
ピストルが鳴るより遥かに早くフライングスタートした部長。
唖然とする一同の前で吊るされたパンを全て引きちぎり、そのまま遠くにすたこらさっさと走り去ってしまった…

「あちゃあ、あれは反則負けですね」

アキホとカオルが相変わらず淡々とした口調で見送る。

「いや、そういう以前の問題。」

やがて、他の選手や教師たちが部長の後を追いかけ始めた。

『捕まえろ!!』や『こうなったらヤツからパンを奪い返した者が勝ちだ!』といった声が聞こえてくる。

「……今度吊されるのはパンじゃなくてアイツの首だな…」

カオルが、静かに合掌した。


一方、リュウは応援席からも離れ、校庭の隅、木々と芝生の茂る日陰で寝転んでいた。

「部長、まぁたハデにやってるなぁ…」

遠くから騒動の様子を楽しみつつ、うとうとと視線をまどろわせる。
木々の間から差し込むほどよい日差しと、芝生をそよがせる風が心地良いこの場所は、普段からリュウのお気に入りの場所だった。

「ふぁ〜あ…」

眠気が差し、つい大きなあくびが漏れる。
その時だった。

「りゅ〜う〜?」

「ん…?」

遠くから聞こえる、自分を呼ぶ声に耳を立てる。
見ると、コウが応援席のほうでうろうろと自分を探し歩いている。

「コ〜ウ♪」

軽く手を振ってみる。
それに気付いたコウが、うれしそうにパタパタとしっぽを振って書けよってくる。

「こんなとこにいたの〜?」

「うぃ♪」

「みんなと一緒に応援しないんだ?」

「あそこ、人がいっぱいで暑っ苦しいもん。」

「にゃはは…確かに。ここは涼しいね。」

そう言ってコウも、リュウの真似をして芝生の上に寝転んでみる。

「コウの競技は?」

「さっき終わったよ、100m走。ビリだったけどね〜。」

「ビリかぃ!」

コウがてへへ、と頭をかく。

「リュウは?」

「俺は、これからハードル走だったかな。」

「…って、もうすぐじゃないの?」

ちょうどコウの声と重なり、放送が入る。

『二年生、80mハードル走に出場する生徒は、至急グラウンドに…』

「ほら。」

「…んじゃ、行くか!」

リュウは面倒臭そうに起き上がると、グラウンドに向かって歩きだした。
コウが後ろから声をかける。

「がんばってね!」

「おう!」

リュウは、軽くサムズアップを見せてそれに応えた。


「位置について、よ〜い…」

パンッ!

ピストルが鳴り、リュウを始めとする数名の生徒が一斉に駆け出す。
リュウのハードル走は、順調な出だしを見せた。
他の生徒と距離を離しつつ、ハードルを軽快に飛び越えていく。

「わぁ…」

横で見ていたコウが、思わず感嘆の声をあげる。
リュウの運動神経の良さは噂に聞いていたが、それがどれ程のものなのか、実際に目にした機会はさほど多くない。
しかし、陸上部でも活躍できそうなその健脚に、コウは感動したように目を輝かせた。

リュウ自身も、これなら一位を狙えると思っていた。
自分の脚の速さを鼻にかけて自慢するつもりはないが、つい余裕の笑みが漏れる。

ゴールまであと10mほど。飛び越えるべきハードルは、あと一つ。
横にならぶ生徒はいない。

勝った、と思った。
だが、その慢心が命取りとなった。
最後のハードルを越える直前、一瞬の気の緩みがあった。
地面を蹴り、高さ数十センチのハードルを越えようとした瞬間。

「!?」

爪先に軽い衝撃が走り、体のバランスが崩れた。

「リュウ!」

コウが声を上げるのが早いか、リュウの体はハードルと共に地面に派手に叩きつけられた。

「くっ…!」

慌てて起き上がろうとするが、右膝に鋭い痛みが走ってうまく立ち上がれない。
そのまま、痛む足を引きずってゴールを目指すが、他の生徒は容赦なくリュウを追い抜いていく。
結局、リュウの順位は最下位だった。
だが、それよりも…

「リュウ〜!!」

コウが大慌てで駆け寄ってくる。
リュウの右膝には、さっき転んだ時の痛々しいすり傷があった。

「わわわっ、大丈夫!?」

「ごめん、結局おれもビリでしたぁ…」

情けなく笑ってみるが、コウが心配しているのはそんなことではない。

「じゃなくて、リュウ、足、ケガ…」

まるで自分がケガをしたようにオロオロと泣きそうな声を上げるコウの肩を軽く叩く。

「平気平気、こんなのかすり傷だって!」

「でも、でも、痛いよぉ…」

「わかったわかった…コウが泣くことじゃないだろ!じゃ、ちょっと保健室行ってくるから…」

保健室に行こうとするリュウのシャツをコウが引っ張る。

「…?」

「ぼくも一緒に行く〜…」

「おいおい…一人で行けるってば。」

「ぅ〜〜…」

親に留守番を命じられた幼児のように、寂しさと不満の入り混じった声をあげるコウがなんだかおかしく思える。
しかし、どうなだめたらいいものか。
その時、不意に放送が入った。

『体育委員からのお知らせです。先ほど行われたパン食い競争を妨害し、現在もなお逃走を続けている演劇部部長・信楽狸吉を、当局では現在捜索中です。』

「部長、まだ捕まってなかったんかぃ!」

『彼を見つけた方は、すぐに体育委員、または生徒会執行部にお知らせください。
捕まえた方には、生徒会から賞品が出るそうです。繰り返します、先ほど行われた…』

まったく、なんでもかんでもイベントにしてしまう学校だと思いつつ、リュウは苦笑した。

「ほら、コウは部長でも捕まえてきなって。な?」

「うん…じゃあ、ケガの手当てが終わったら一緒に捜そうね…」

「おっけ!じゃ、おれはさっさと保健室に。」

「うん…じゃあね!」

寂しそうに手を振るコウに微笑み、リュウは今度こそ保健室に足を運んだ。


「まぁったく、何やってんだか…」

保健室のイスで一人、先ほどの放送を聞いてミナがため息をもらした。

「あ〜、ヒマ…」

備品のポットのお湯でお茶をいれるも、ミナの文字通りの猫舌のため、冷めるまで飲むことができないのがまどろっこしい。
仕方ないので、壁に貼ってある視力検査表でヒマ潰しに視力を計ってみたりする。

両眼ともに2.0。
良好良好。

「…むなしい…」

そんな愚痴を漏らした時だった。
ベッドに腰を下ろし、しょんぼりとしっぽを下げるミナの耳に、コンコンと保健室のドアを叩く音が聞こえた。
慌ててベッドから降り、イスに座り直して姿勢を正す。

「失礼しま〜す…」

ガチャリとドアを開け、一人の生徒が入ってくる。

「は〜い…って、リュウ!?」

「わ、ミナ!?」

「どうしたの!?」

「何やってんの!?」

互いに、同時に口を開く。
一呼吸おいて、リュウが聞く。

「…えっと…ミナ、具合いでも悪い…?」

「違う違う。私、保健委員なの。今日は保健の先生が出張で留守だから、午前中は私が当番でここにいるの。」

「はあ。」

「…って言ってもヒマなんだけどね〜…体育祭だっていうのに、誰もケガとかしないんだもん。」

そこまで言って、ようやくリュウの足のケガに気付いた。

「あ、足…」

「へへ…ハードルでヘマしちゃってさ…」

「どうせまた油断したんでしょ?『絶対勝てる!』とか思って。」

「うっ…」

「リュウはいつも最後の詰めが甘いの。最後に気を抜いて、それでいつも失敗するんじゃない。」

「ほへぇ〜、よくわかってらっしゃる。」

「…とりあえず、座って。」

ミナに促され、リュウはイスに腰かけて足を見せる。

ミナは慣れない手つきで傷の消毒を始める。

「ひゃっ!しみるっ!」

「当たり前でしょ。男の子なんだからそれぐらいガマンしなさい。」

「はい…」

消毒を済ませ、ガーゼを当てて包帯を巻く。
だが、包帯を巻いた経験が多くないためか、やたら時間がかかる。
巻いてはほどき、巻いてはほどく。

「…ごめんね、時間かかっちゃって。」

「いや…」

そんなこんなで、ようやく巻けた包帯はとても不格好なものとなった。

「こんなもんかしら?」

「ミナ、不器用。」

「う、自覚してるわよ…」

「…でも、サンキュ。」

「もうケガしないでよ。手当て、面倒だから。」

「うん、じゃあな!」

そう言ってリュウは保健室を出ようとする。
ミナは黙ってそれを見送るつもりだった。
だが…

『言いたいことは、はっきり伝えたいんです。先輩も、ね?』

不意に、アキホの言葉が頭をよぎる。

自分の気持ちを伝えるなら、今だ。

「待って!」

「?」

振り返ると、すぐ後ろにミナがいた。

「どうした?」

そう聞こうとした瞬間、リュウの口は何か柔らかいものでふさがれた。

「!!?」

視界いっぱいに広がるまで近付いたミナの顔。
数分か、数秒か、それすらもわからなかった。

何が起こったのか、さっぱり理解できない。
ただ、リュウの心臓はこれまでにないほど激しく鼓動を打っていた。

その時だった。
突然、大量のパンを抱え、勢いよく保健室に駆け込んできた生徒が一人。

「すんません〜!ちょっと隠れさせてくださ…!!?」

「!!」

最悪のタイミングだった。
とっさにミナが、リュウから顔を離す。
だが、遅かった。

駆け込んできたのは部長。その手から、パンがバラバラとこぼれ落ちる。

これはなんだ、何か新しい芝居のリハーサルか何かか?
いやいや、おいらはこんな脚本、書いた覚えがないぞ?

「ミナちゃん…」

「部長…」

リュウは混乱しているのか、硬直したまま動かない。

「あ…あははっ…いや、あの、ゴメン…」

慌てて、床に転がったパンを拾い集める。

 そうか、そうなんだ。

部長は寂しそうにしっぽを垂らし、逃げるように保健室から駆け出した。
人気のない廊下に、部長の足音だけがドタドタと響く。

「み、ミナ…」

ようやく状況を理解し始めたリュウが、背を向けたミナに声をかける。

「…ごめん。でも、私はリュウが…」

「ダメだ!」

とっさにミナの言葉を遮る。

「…ごめん、何て言っていいのかわかんないけど…今はまだ、その続きは言わないで。」

「……うん、わかった…」

「じゃ、じゃあ…」

今までに味わったことのない複雑な想いを抱いたまま、リュウは保健室を後にした。


廊下には、部長の落としたであろうパンが点々と散らばっている。
ヘンゼルとグレーテルの童話じゃないが、このパンをたどれば部長のいる場所に行けるかもしれない。
だが、行っても仕方がない。行く資格も、勇気もない。

少し独りになりたい。

リュウは再び運動場の片隅、芝生の上に寝転んで眼を閉じた。

「リュウ…?」

すぐ横からコウの声が聞こえる。でも今は、それに応えることができそうにない。

今は何も考えたくない。

真横に立っているであろうコウの気配を感じながら、リュウは無理矢理に自分自身を眠りにつかせた。