第7話『勝負の時』


「はぁ…」

その日の朝、ミナはやや元気のない足取りでとぼとぼと学校へ向かっていた。

「どうしてあんなこと言っちゃったんだろ…」

ミナの脳裏には、金曜日にコウに言った言葉に対する後悔があった。
リュウとどんどん親しくなっていくコウに嫉妬していたことは明らかだ。
彼に対してはどうしても辛く当たってしまう。
そして、結果的に自分の言葉が例の「ウハウハ♪ラブナイト」を促し、ますますリュウとコウの仲を深めてしまったのではないかと悔やんでいる自分がいた。

「なんで男の子に嫉妬してるんだか…」

今日の放課後を迎えるのが怖かった。
リュウとコウの『絆』を見せ付けられるのではないかと。
バカだ、と自分でも思う。
好きな男子にだって気の合う友人ぐらいいて当然のはず。
しかし、それでも突然転校してきたコウをばかり見てほしくないという気持ちがあった。
そんな自己中心的な想いを抱く自分が嫌で、つい溜め息が出てしまう。
その背後から突然、明るく甲高い声が響いた。

「ミナせんぱ〜い!」

ミナが振り向くと、アキホがせっせと走ってくるのが見えた。
足を進める度にのそのそと揺れる大きなしっぽがなんだか和やかだ。
アキホはミナに追い付くと、歩調を落とした。

「あ、アキホちゃん。おはよう。」

「今日ですね、コウ先輩の特訓の成果が見られるの!」

「え、うん…」

「あれ、楽しみじゃないんですか?」

ミナの微妙な表情に、アキホが首を傾げる。

「別にそういうわけじゃないけど…うん、コウくんがどれだけ頑張ったか、期待してるよ。」

ぎこちなく笑ってみせるが、どうにもごまかし切れない。
演劇部の名女優も、舞台以外での演技は苦手らしい。
アキホの素人目から見てもそれは明らかだ。

「…ミナ先輩、ひょっとしてコウ先輩のことが苦手、とか…?」

その問いにミナは、首を横に振ろうとはしなかった。

「…コウくんはいい人だと思うし、彼のことは嫌いじゃない。優しくて素直で、本当にいい子だと思う。」

「だったら別に…」

「だから、たぶん私、コウくんに嫉妬してるんだと思う。」

「嫉妬?」

「好きな男の子が、自分の想いに気付いてくれなくて、他の友達とばかり話してたらどう思う?」

「それは…悔しいと思います。」

「そういうこと。」

「ミナ先輩、もしかしてリュウ先輩のこと…?」

「…まあ、ね…」

それっきり二人は黙り込んでしまったが、やがてアキホが再び口を開いた。

「…でも、それをコウ先輩のせいにするのは卑怯じゃないですか…?」

「卑怯?」

「好きな人がいても、ミナ先輩が自分の気持ちを伝えなかったら、気付いてもらえるわけないですよ。
ミナ先輩はそれをコウ先輩のせいにして、逃げてるだけじゃないですか。」

図星だった。
自分が臆病者であることはわかっていた。だが、他人に言われるまで認めたくはなかった。

「…アキホちゃん、意外にはっきり言うのね。」

「ごめんなさい。でも言いたいことは、はっきり伝えたいんです。先輩も、ね?」

アキホは軽くウインクしてみせた。

「…そのうちね。」

今すぐ、と答えるのは無理だった。
でも気持ちの整理がつけば、いずれリュウに伝えよう。
コウのことだって、嫉妬したままじゃいられない。

あと一歩を踏み出せる、勇気さえあれば。

ミナは急かされるように足を早めた。


そして放課後。『その時』が、ついにやって来た。

「青草高校演劇部・サナギは殻を脱ぎ捨てて、美しき蝶となって華麗に舞うことができるんかい?すぺしゃるぅ〜っ!!」

「いちいちワケのわからないサブタイトルを付けんでいい、バカたぬき。」

「へへん、こういうのはオイラの趣味でぃ。」

「だとしたらそれは悪趣味だ…」

いつにも増して異常なテンションを見せる部長と、いつもよりよく喋るカオル。

「お二人とも、ここ最近出番がなかったですからねぇ。」

しみじみと語るアキホにすかさず、「キミもでしょ〜が!」と部長のツッコミが入る。
そんな風に盛り上がる三人とは対照的に、リュウとコウは上演する芝居について、台本を手にひそひそと打ち合わせをしている。
どうやらメインで芝居を演じるのはコウだが、その相手役の演技はリュウ、ということらしい。
リュウがどんな台本を選択したのか気になったミナはリュウの横に顔を出すと、さりげなく声をかけた。

「ねぇ、何の台本選んだの?」

「え?あぁ…『めだまやき』の1シーンだけど…」

めだまやき。
昨年の上演台本である。
演出・脚本を部長が手掛け、リュウ、ミナ、そして今年卒業したOBの一人が役者を務めた作品である。
去年の夏の地区大会で青草高校演劇部が上演し、優良賞を受賞した。

卒業後、海外に引っ越すことになった男子高校生と、その親友たちの物語。
部長いわく、テーマは「夢」らしい。
ベタベタの青臭いドラマだが、それなりにウケは良かった芝居だ。

ミナはふぅん、と頷き、リュウの持つ台本を手に取ってみた。
…が、次の瞬間、ミナの大きな目はさらに大きく見開かれた。

「なっ…なにコレ!!」

「どーかしたか?」

「どーしたもこーしたも…リュウ、あんたが『ユキミ』役なの!?」

「うん、で、コウが…」

「ユウヤ役をやらせていただきますー。」

コウがペコリと頭を下げた。
だが…ということは。
ユキミ、それは主人公であるユウヤの…その…アレだ。恋人だ。
つまりそれをリュウが演じるということは、まさにコウとリュウの「らぶらぶ」なシーンを見せ付けられるということだ。
さすがにそれは、いくらなんでも…

「だってホラ、この台本で二人だけのシーンってここだけだし…女役は恥ずかしいけど仕方ないかなぁって…」

リュウがのんきに弁解するが、ミナにとって問題なのはそんなことではない。
この期に及んで二人のイチャイチャっぷりなんかを見せ付けられるぐらいなら、いっそのこと…!

ミナはワナワナと震える肩を静めるために軽く息を整えると、机の上にそっと台本を置いた。

「…いいわ。」

「へ?」

「コウくんの相手は…ユキミ役は私がやる…!」

「えぇえっ!!?」

「…リュウの女役なんて気持ち悪くて見れたもんじゃないわ。私、まだセリフも覚えてるし。」

「いや、でも、それじゃおれの立場が…」

うろたえるリュウを横目に、コウは意外なほどに落ち着いて答えた。

「んじゃあ、よろしくお願いします、ミナさん♪」

「自信あるの?」

「うぅん、自信はないです…でもここまで来たら、最後までがんばってみたいから。」

「へぇ、いい心がけね。でもがんばるだけなら誰でもできる。そこから先は、私が見極めてあげる。」

「ちょ、ちょっと待てって。二人で勝手に進めるなよぉ…」

心配そうに声をあげるリュウを逆に気遣ってか、コウは軽くリュウの肩を叩いた。
心配しなくていいよ、という意思を込めた笑顔を見せる。

たった三日間で、ずいぶん頼もしくなったもんだ…

リュウは不安げな表情のままではあるが、それでもゆっくりと頷いた。

「じゃあ部長、いつでもOK。仕切りよろしくね。」

ミナは部長に台本を投げ渡した。

「りょーかいー!…と言いたいとこだけどさ、この勝負はどう判定すればいいの?」

「…それは見てれば自然にわかるはず。コウくんが本当に頑張ったのならね。」

ミナの挑発的な態度を前にしても、相変わらずコウはのほほんとした笑顔を浮かべている。

「コウ先輩、なんだか前より吹っ切れたような感じがしますねぇ。」

「やっぱりリュウの奴と何かあったか…?この一芝居は見物だな…」

「男の子二人で三泊のラブナイト。いったい何してたのか気になるところですよね。」

「まったくだ。きっとあんなことやこんなことを…」

「カオル先輩っ!不謹慎ですよ!」

「ネタ振ったのはキミでしょ…」

「…そ、それにしてもカオル先輩、今回はホントによく喋りますね。」

「ああ。お互いさま。自分でもビックリだ…」

アキホとカオルがなんだかすごく微妙な会話を淡々と交している間に、ミナとコウは舞台に見立てた教室中央に座り込んでいた。
台本上でのこの舞台の設定は、小高い丘の上。
卒業を控えた夏の夕暮れ、ユウヤが海外に行ってしまうことを知ったユキミ。
彼女がユウヤに詰め寄るシーンである。

ミナはかつて演じたユキミという役にすでに入り込んでいるようで、切なげな表情でうつむいた。
対するコウは意外なほどのんびりと構えている。
かつてリュウが演じたユウヤという役を、自分なりの解釈で演じるつもりらしい。

他の部員たちは静かに席につき、二人に目を向けた。

「準備いいか?んじゃ、よぉ〜い、スタート!」

わずかな静寂の後、部長の声が響いた。


[創作劇『めだまやき』シーン4]

「あの…ユキミ…」

「どうして、隠してたのよ?」

「隠してたつもりじゃなくて…いつか言おうと思ってたんだ。」

「いつか?いつかも何も、今月中にはもう海の向こうに行っちゃうんでしょ!?」

「……ごめん。」

ミナのユキミ役は、さすがに手慣れた感がある。
一方コウのユウヤ役は、演技としてはとてもぎこちないが、しかし役の雰囲気には合っている。
三日で叩き込まれたものにしては上出来だと言える。

だが、それを見つめるリュウにはある心配事があった。
このシーンのラストで、ミナは恐らくアドリブを仕掛けてくる。
誰もが動揺するであろう、恐ろしいアドリブを…
リュウと二人で練習した時には、アドリブに関する備えは行わなかった。脚本をそのまま演じるだけなら、特に必要はないためだ。
しかし今回の相手はミナである。
はっきり言って、ミナのアドリブはタチが悪い。コウには荷が重いだろう…
リュウのそんな心配をよそに、どんどん二人の芝居は進んでいく。
月並みなセリフの押収の後、その場面はやってきた。

それは台本上では、ユキミがユウヤの手を握るという、それだけの場面のはずだった…

ユキミを演じるミナが、ゆっくりとユウヤ…を演じるコウの手の上に自分の手を重ねる。

コウの顔が少し赤くなる。これが素ではなく、演技だとしたら大したものだ。

「…ご、ごめん。もう行かなきゃ…」

ユキミの手を振りきるように立ち上がり、そのまま立ち去るユウヤ。

それでこの場面は終わるはずだった。
だが。

「…待って!」

ユキミの声に、思わず立ち止まるユウヤ。

「え…?」

不意に発せられた、台本にないセリフに、明らかにうろたえた素振りを見せるコウ。

部長をはじめ、他の部員もまさかここでミナのアドリブが入るとは思わず、動揺を禁じ得ない。

カットを入れるべきか。
迷う部長が判断する前に、ミナは次の行動に移っていた。

「…!!」

コウが大きく目を見開く。
ミナの両手に肩を抱かれ、その顔は自分の胸に埋められていた。
予想だにしないミナの行為に、コウの頬が真っ赤に染まる。
コウのふさふさとしたしっぽは逆立ち、まっすぐに天を指したまま硬直して動かない。

リュウが思わず頭を押さえた。
自分が初めてミナに同じことをされた時は、しばらく放心してしまい、何もできなくなったほどである。
なんでもミナいわく、
「仕方ないでしょ、体が勝手に動いちゃうんだから」
だそうだが、誰が見ても確信犯だ。男をからかっているとしか思えない。唖然とする一同をよそに、ミナが口を開く。

「私…まだ何も本当のこと言ってないよ?」

もはやそんなセリフがコウの耳に届いているとは、誰も思っていなかった。
だが次の瞬間、驚いたのはミナの方だった。

「あっ…」

小さく声を発したミナの思考は、自分を包む力の正体を理解するまでに数秒を要した。

コウの腕が、強く強く自分の体を抱き寄せている。
胸が苦しい。
コウのふっくらとした体から、その体温が直に伝わってくる。
その瞬間、ユキミはミナに戻っていた。

…いけない。

なぜか罪悪感を感じる。コウに対してか、リュウに対してか、あるいは自分自身に対してか…
これは芝居だ。芝居のはずだ。
でも、自分を強く締め付けるこの力と温もりは、紛れもなく本物だ…

「あ、あの…コウくん…?」

…コウ、いや、「ユウヤ」は依然として「ユキミ」を抱き寄せた手を離さない。

「…!」

ミナはそれを理解した時点で、自分の敗北を悟った。

「…負けた…」

「か…かか、かぁ〜っとぉ!!」

部長の焦りまくったかけ声の後、ようやくコウはその場にへたり込んだ…