第12話『ぼくの名前』
「悪いねぇコウくん、こんなに遅くなっちゃって…」
「いえ…」
リュウの父が運転するトラックの助手席で、コウがかすかに声を返した。
時刻は夜11時を過ぎていた。
結局あの後リュウは検査のため、別の病室に移されたため、とりあえずコウは先に帰宅することになった。
「しっかし大バカもんだよなぁあの野郎。頭打って記憶喪失なんて、マンガのネタじゃあるまいし」
リュウの父は朗らかに笑ってみせた。
コウはただうつむいたまま口を開かない。
「ふんむ…」
リュウの父は一息つくと、片手でコウの垂れ耳をぎゅっと握った。
「うぁぅ!」
コウが思わず声をあげた。
「うはは、コウくんの耳、思った通り柔らけぇなぁ!」
「やぁん、そこ、にぎにぎしないでください〜!」
くすぐったいのか、身をよじらせて笑う。
それを見てリュウの父もニッと笑った。
「な?シケた顔すんない。笑ってるのが一番じゃねえか!」
「…はい!」
そうしている間に車はコウの家の前に停まった。
「ありがとうございました」
「俺はこれから病院戻るけど…良かったら、明日も見舞いにきてやってくんねぇかな?」
「もちろん!部長やみんなも連れていきます〜!」
リュウの父は微笑みを返すと、別れを告げて車を走らせた。
コウは自室のベッドに寝転ぶと、一度頭の中を整理した。
リュウの母親・イブキのこと。
リュウの事故、そして記憶喪失。
明後日までに治らないと、困ったことになる。記憶喪失のリュウを会わせるわけにも…
コウはため息をついた。
ふと窓の外に目を向ける。向かいのリュウの家は、今日は真っ暗だ。
「…なんか、疲れた…」
コウはそのまま、ウトウトと眠りについた。
翌日―
「おいらのこともわかんないのかよぉぉぉっ!!」
部長がボロボロと泣きながら、リュウの肩をがくがくと揺さ振った。
「ぐ、ぐるじぃ…」
「頭が覚えてなくても体が覚えてるはずだっ!去年の文化祭でおまえが主役やった劇の一場面を再現すればきっと!!」
がくがくがく。
「ぐぇぇ…」
「部長、リュウ先輩、目を回してますけど!?」
アキホの制止にも聞く耳を持っていない。
「いくぞっ、『おれは腐ったバナナなんかじゃない!…腐ったイチゴなんだよ!!』」
がくがくがくがく。
「離じでぇ…」
「ちっがぁぁう!!次の台詞は『うっさい!!おまえは腐ったリンゴだろうが!!』だろっ!?」
「やっかましいっ!!」
ミナの強烈なチョップが部長の後頭部に炸裂した。
「病院で騒がないの!!」
「おいらの記憶が飛ぶかと思った…」
頭を抱えて床に転がる部長をツンツンとつつきながら、カオルが口を開いた。
「で、記憶喪失の原因はやっぱり階段から落ちて頭ぶつけたのが原因?」
「ん〜、お医者さんは、頭には特に異常ないって。精神的なものが原因じゃないかって」
コウが答えた。
「精神的ねぇ」
カオルが腕を組んで考え込む横で、部長がポンと手を叩いた。
「コウ、おまえリュウにキスしてみ。昔から王子さまのキスで目が覚めたり記憶が戻ったりするのはよくあるパターンだ」
「なんでそーなるですか!」
顔を赤くしながら吠えた。
「バカたぬきの記憶も消しとくか?」
「いい考えね」
カオルとミナの冷ややかな視線に刺され、部長はしょんぼりとちぢこまった。
「でもコウくん」
ミナがコウに声をかけた。
「?」
「少し、リュウと二人で散歩してくれば?天気いいし、気分転換になるんじゃないかな」
「それならみんなで一緒に…」
「コウくんにしかできないことって、あるんじゃないかな」
「え…」
リュウはきょとんとコウを見ている。
「じゃ、じゃあ…行こうか?」
「う、うん」
オドオドした素振りを見せながらも、二人は病室を後にした。
「ミナ先輩」
アキホが尋ねた。
「コウ先輩にしかできないこと…?」
「ネコのカンよ。略してネコカン」
「なんですかそりゃ…」
突拍子もない答えに、がっくりと肩を落とした。
部長だけは「さすがミナちゃんだ!」などと喜んでいるが。
空は青かった。
病院に併設されている公園を、二人は散歩していた。
「リュ、リュウ…」
「うん?」
「いい天気だね」
「そうだな」
「……何か思い出した?」
リュウは申し訳なさそうに首を横に振った。
「そっか…」
「ごめん…」
「気にしないで!…でも、なんかヘンなの」
「ヘン?」
「なんかぎこちなくってさ…初めて会った人みたいな」
言ってから気付いた。
「そっか、今のリュウにとっては、初めて会った人か…」
「…泣いてる…」
「えっ」
慌てて涙をぬぐった。
「おれって…君にとってそんなに大事な人なの?」
「当たり前だよ!!ぼくも、ミナもみんなも…みんなそう思ってる…」
「おれ…なんで忘れちゃったんだろう…」
「リュウ…」
二人は芝生の上に腰をおろした。
風が頬をそよぐ。
「おれは…本当のおれに戻りたいよ…今のおれのせいでみんなが辛そうな顔するのは、すごくイヤだ…」
リュウはぎゅっと拳を握り締めた。
「…大丈夫だよ」
コウは震えるリュウの拳の上に、優しく手を重ねた。
「大丈夫だから。今も昔も、リュウはリュウじゃん」
精一杯、笑顔を贈る。
「誰だって思い出せないこととか、忘れたいことぐらいあるもん」
コウは身を乗り出し、まっすぐにリュウの瞳を見つめた。
「ぼくの名前を呼んでみて!」
「…コウ……」
「ね!」
コウは満足そうに、肩を寄せた。
「思い出せないんならさ、忘れたんならさ…また最初から始めればいいじゃない」
コウの体温が伝わってくる。
「ぼくなんかは、リュウと知り合ってまだ数か月なんだよ?すぐに取り戻せるよ、それぐらいの時間なら…」
「コウ…」
ハッと、リュウは耳を立てた。
「リュウ…リュウ…!」
女性の声。二人は同時に声の主を探した。
「えっ…」
イブキが、息を切らして駆け寄ってくるのが見えた。
とっさにコウが駆け出す。
「あの…イブキさん!」
「コウくん…あの、私、さっきトラヒコさんからリュウのこと聞いて…」
トラヒコというのはリュウの父親のことだろう。そういえば今日は病院にいなかった。
「あの…リュウの記憶はまだ…」
後ろにいるリュウに目を配った。
「いえ…精神的なことが原因って聞いて…私のせいじゃないかって思って…」
「イブキさ…」
「…母さんっ!」
リュウの声が、コウの声をさえぎった。
「!!」
「おれ…おれ…!!」
リュウの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「ずっと母さんのこと嫌いだった。なんで親父のこと見捨てたんだって。母さんのことを考えると苦しくって、忘れてしまえばいいって思ってた…!」
「リュウ、記憶が…!」
「だけど違った。忘れることなんてできないよ…できても、その方がよっぽど苦しいことなんだって気付いた…」
イブキは、ためらいつつもリュウの肩に触れた。
「言い訳にもならないかもしれないけど、聞いて」
嗚咽をもらしながらも、イブキの顔を見つめた。
「7年前のあの夜、トラヒコさんと電話で話したの。リュウは、どこにいても私とトラヒコさんの子供だって。二人が離れてもそれは変わらないからって。」
「母さん…」
「今は二人とも違う道を歩いてる。私にできることは遠くから応援することだけ。」
イブキはリュウに、小さな箱を渡した。
「がんばって!」
力強く微笑むと、イブキはリュウの涙をぬぐった。
「コウくん」
「え?」
「これからも、リュウをお願いね」
「は、はい…!」
「じゃあ、元気でね」
「母さん!」
背を向けるイブキを呼び止めた。
「…たまには家に帰ってきても…いいと思うよ…」
「…考えておくわね」
イブキは手を振って、その場を離れた。
「リュウ…」
コウがリュウの背中をさすった。
「おれ…記憶喪失のフリしてただけ…なのかな…」
「どっちでもいいじゃない。思い出は消えないし、リュウはリュウだから!」
「なあ、コウ…」
「なに?」
………
「ありがとう…」
王子様のキスで目が覚める、よくあるおとぎ話じゃないけれど。
その時ぼくが感じた気持ちは、どんなおとぎ話よりも綺麗なものだったよ。
もう少しだけ、二人で散歩しよう。
もう一度だけ、ぼくの名前を呼んでみて!