第11話『忘却の仔犬』
初夏迫る夕暮れ、部活を終えたリュウとコウはいつも通り肩を並べて帰路についていた。
交わす言葉は他愛もないことばかりだが、お互いにそれが楽しかった。
街は帰宅途中の学生やサラリーマン、買い物に出掛けた主婦等で賑わっている。
きょろきょろと周りを見渡しながら、コウがふとこんなことを呟いた。
「こういうの、好きだなぁ」
「こういうの」というのが、この街の雑踏のことを指しているのだとリュウが気づくまで、多少の時間がかかった。
「なんで?」
辺りを見回しつつリュウが訪ねた。
「なんかさ、みんな帰る場所があってさ、毎日その場所のために生きてるんだなぁって」
「…な〜んか、もしかしてコウって時々かっこよかったりする?」
「何その微妙な反応」
「うんや、かっこいーかっこいー」
と、手を叩いてからかってみせる。
「もー!たまにかっこいーこと言うとからかうんだもんなぁ〜。ひどいや!」
と、楽しげにふてくされてみせた。
きっとコウって、普通に生きてるだけで楽しいんだろうなぁと思う。
「いや、でも感心した。」
「…えへへ」
「帰る場所ねぇ」
「うん」
帰る場所、帰ってきた場所。
ふとリュウは空を見上げた。
…空を見上げることで、不意に目から溢れだした物を隠した。
「ん、泣いてるの?」
隠せてなかった。
「泣いてないって」
「ぼく、泣くほどかっこいいこと言ったかなぁ?」
「ちがうって…」
―ちょっと、ヤなこと思い出しただけ。
「どーしたのさ?」
「なんでもないよ!」
「んー、そっかぁ」
コウはそれ以上何も聞こうとはしなかった。こういうところが、案外オトナなんだと思う。
「あっ!」
コウが何かを見つけて声を上げた。
「ちょっと待ってて、ソフトクリーム買ってくる!」
それだけ言い残し、てけてけと走りだしてしまった。
「え、おい!」
どうやらコンビニのソフトクリームのポスターが目に入っちゃったらしい。
「甘いもの好きなんだからなぁ…」
こういうところが、やっぱり子供なんだと思う。
リュウは仕方なく店の前で待つことにした。
「…ュウ!」
「ん…」
人込みの中から、自分を呼ぶ女性の声が聞こえた気がした。
「リュウ!」
気のせいじゃない。
雑踏の中から走ってくる女性の姿が見えた。
40代ほどの、柴犬の女性。決して着飾っているわけではないが、端正で美しい顔立ち。
女性はリュウの前で立ち止まると、にっこりと微笑んだ。
「私のこと、覚えてる…?」
リュウは、その女性の顔を思い出した。思い出したくなかったのに。
「母…さん…」
7年振りだった。
だが、感動はなかった。喜びも、なかった。
「やっぱりリュウなのね。すぐわかった」
「なんで、今更…」
「…仕事でね、三日ほどこっちに来ることになったの…」
リュウは、母から目を反らした。
「ごめん、顔、出さないでほしいんだ」
「…リュウ…」
「…ごめんっ!」
そう叫んで、駆け出した。
あの時と、同じように。ただがむしゃらに、何も見ずに。
「リュウ!!」
母は手を伸ばすが、追おうとはしなかった。
リュウの姿が見えなくなると、母は伸ばした手を握り、うつむいた。
こうなることはわかっていたはずだったのに。
「あ、あの…」
不意に背後から声をかけられ、振り向いた。
ゴールデンレトリバーの少年が、ソフトクリームを両手に持って立っていた。
困ったような笑顔を浮かべている。
「リュウの…お母さん、ですか?」
「ええ…あの子のお友達?」
「はいっ」
コウはにっこりと笑ってみせた。
「あの…ソフトクリーム、食べません?本当はリュウに買ってきたんですけど〜…溶けちゃうから…」
コウは、ソフトクリームをすっと差し出した。
「イブキさんって言うんですかぁ」
それがリュウの母親の名前だった。
二人は公園に移動し、ソフトクリームを手に話していた。
「あの子に謝りたくてきたんだけどね…ダメだった」
「謝る?」
「ううん…あの子はどう?学校でも元気してる?」
「はい!」
「そう、良かった」
満足そうに微笑むと、イブキはバッグから小さな箱を取り出した。
「これ、あの子に渡してくれない?プレゼント買ってきたんだけどね、たぶんもう、会ってくれないだろうし」
「ん〜…」
コウは箱を受け取ろうとはしなかった。
「ぼくが渡しても、受け取ってくれないんじゃないかな…」
「でも…」
「何があったか知らないけど、手の届かない場所にいるわけじゃないんだから。ちょっとぐらいがんばってみてもいいと思いますけど?」
そう言ってコウは、ベンチから跳ねるように立ち上がった。
「ん〜と、明後日の夕方、またここに来てくださいっ!リュウ、絶対連れてきますから!」
イブキは元気に駆け出したコウの背を見送ると、バッグから一枚の写真を取り出した。
リュウが10歳の頃の写真だ。
リュウを挟んで、トラ族の父親とイブキが並んでいる。遊園地に行った時に撮った、三人で写した最後の写真だった。
自分勝手なのは、私の方ね…
イブキはかすかに微笑んだ。
コウはリュウの家のチャイムを何度も鳴らしていた。
ドアには鍵がかかっていて、中から返事がくる様子もない。
「ん〜…まだ帰ってないのかな…」
バシッ!!
「きゃぅっ!?」
ドアの前で立ち尽くしていたコウの背中を、いきなり誰かが強く叩いた。
「うぉっす!」
見るからにガタイのいい、トラ族の男がニカッと笑いながら立っていた。
「あ…リュウのお父さん…!」
あまり顔を合わせたことはなかったが、少し挨拶を交わしたことはあった。
見るからに体育会系な風貌で、叩かれた背中はまだヒリヒリしている。
「お、お久しぶりですぅ〜」
ペコリと丁寧にお辞儀した。
「やぁ、今日は仕事が早く終わったんでよ、たまにはリュウと食事でも行こうと思ってね。良かったらコウくんもどうだい?」
「あ、いや、あの…リュウはまだ帰ってないです?」
「んー?家のカギかかってるならそうだろうな?って、今日は一緒じゃなかったのか?」
「ええ、まぁ…あの、その、実は…」
「…とりあえず中入れ。ゆっくり話を聞こうじゃないか」
しどろもどろになるコウを、リュウの父は家の中に招き入れた。
「はぁ…」
リュウは人混みの中に紛れ、行くあてもなくとぼとぼと歩いていた。
おれは、あの時…自分から飛び出したんだ。
自分で、こうなることを望んでいたんだ。なのに…
「なんで今さら追っかけてきたんだよぉ…」
そう、あの時。
いつも仕事仕事で、ほとんど家に帰って来れない親父のために、次第に母さんにかかる負担が大きくなっていた。
そしてある雨の夜、母さんはおれを連れて家を出たんだ。
「しばらくお祖母ちゃんの家にお世話になりましょう」
と聞いたけど、そうじゃないのは小学生だったおれでもわかった。
親父…父さんと会えなくなってしまう。
母さんがトイレに立ち寄ろうと、ドライブインに車を止めた時におれは走りだした!
『父さんのところにかえります』
へたくそな字で書きなぐったメモを置いて。だって父さん、何も悪くないから!
雨の中、ずぶ濡れになって走り続けたおれを父さんは…同じようにずぶ濡れになって待っててくれた。
母さんから家に電話がかかってきた。
父さんと何を話したのかはわからない。
だけどおれは母さんのもとを離れ、この場所に帰ってきたんだ。
忘れてしまいたかった出来事だ。
「……!!」
ふと我にかえった時、リュウの足元に地面はなかった。
ふわりと身体が浮く感覚に続き、全身に鈍い衝撃が走った。
「リューウ〜!」
リュウの家を出たコウは人混みをかき分け、リュウの姿を探していた。
リュウに伝えなきゃいけないことがある。
「どこ行っちゃったんだよぉ〜…」
周囲を見渡すが、それらしい人影は見当たらない。
「ん…?」
向かいの通りの地下鉄に続く階段に、何やら人だかりができている。
駆け付けたばかりと見られる救急車が一台、道路に横付けされている。
やがて階段の下から、担架に乗せられた人物が救急車に運ばれていくのが見えた。
「えっ……」
見間違いだと、そう信じたかった。だが反射的にコウは、走りだした救急車を追いかけていた。
ぼくが見間違えるはずがないんだ…あれは…
走ることが得意じゃない自分の体が、こんな時ばかりはとても悔しい。
やがて救急車は市内の病院の緊急入口に停車した。
そう遠くない場所だったのが幸いし、コウも息を切らしながらも追い付くことができた。
ふらつく足を堪え、救急車に向かって再び走る。
「りゅ…リュウっ!!」
救急車から降ろされ、病院に搬送されるリュウに向かって叫んだ。
「ん…?」
担架を押していたクマ族の青年の一人が、その声に気付いて駆け寄ってきた。
「君、あの子の知り合い?」
「は、はい…あの!リュウはっ…!」
肩で息をしながら精一杯話すコウに、青年はにっこりと微笑んでみせた。
「彼、階段から落ちたんだよ。ちょっと頭ぶつけちゃって気を失ったみたいなんだけど大丈夫。
大したケガじゃないからすぐ目が覚めるよ」
「大ケガじゃないんですか…?」
ふっと力が抜け、コウはその場にへたり込んだ。
「少し中で休んでるといいよ。」
「はい…すみません…」
「りゅ〜ぅ〜…」
病室前のイスで休んでいたコウだったが、どうにも中の様子が気になって仕方がない。
とりあえず席を離れ、公衆電話でコウの母には事情を説明してしばらく帰れないことを伝えておいた。
心配していたが、容体は大したことはないと伝えると安心したようだ。
しばらくすると看護婦の一人が、まだ目が覚めてはいないが、病室の中に入ってもいいと促してくれた。
治療は無事に終わって、やはり大したケガじゃないと聞いて安心した。リュウの父もじきに来るらしい。
病室の中に恐る恐る足を踏み入れると、リュウはベッドの上ですやすやと寝息を立てていた。
「リュウ…」
頭と腕に包帯を巻いているが、それ以外は目立った外傷はなく安心した。
いつの間に時間が過ぎたのか、すっかり辺りは暗くなっている。
「コウくん…」
そっと病室の扉が開き、リュウの父が入ってきた。
「あ、どうもです」
リュウを起こしてしまわないないよう、静かに返事を返した。
「すまなかったなぁ。腹減っただろ?」
そう言って、コンビニで買ってきたおにぎりをいくつか手渡した。
「あ、すみません…」
「しっかしドジだよなぁ…階段で足踏み外すなんてよ…」
「にゃはは…」
「誰がドジだよぉ…?」
「あっ!」
リュウの目が覚めた。うっすらと目を開け、上体を起こした。
「んー…イテテテ…」
「おはよ!」
うれしそうにコウが顔を近付けた。
「大丈夫かぁ?おにぎり食うか?」
と、父がおにぎりを差し出す。
「んっと…」
リュウが二人の顔を交互に見渡した。
「二人とも、誰…?」
「………はい!?」
どうやら、安心できる状態ではなかったらしい。
コウも、父親も表情が凍り付いた。
「ていうか、おれは…誰だっけ…あれ…?」
リュウの表情も凍り付いた。
これから夏が始まるってのに。