EPISODE 1
明日に吹く風
「ふぁ〜あ…」
緑豊かに茂る小高い丘の上、パンダ族の少年ライム・パンディの気の抜けたあくびが響いた。
やわらかい土の上にどっしりと身を任せる。薄い生地の青いズボンと、前をはだけた若草色のベストだけという軽装が彼のお気に入りだった。
呼吸をするたびに大きなお腹が上下する。白と黒の体色にアクセントを加えるように、金色の髪が風にふわりと揺れる。
草原に寝そべったライムは、むにゃむにゃと眠そうに口を動かしつつ、大きなお腹を、これまた太く大きな手でなでている。
心地よい風と穏やかな日差しの中での微睡みが、ライムの何より好きなものだった。
ひゅう、と、時おり風が鳴く。
「いい風…」
つぶやいたライムの視界に、突然イヌ族の少年の顔が飛び込んできた。
「な〜にがいい風だ!」
「んわっ!」
グレーの毛並みの、少しきつそうな顔つきをしたイヌ族の少年―カシス・ハウルは、いきなりライムを怒鳴り付けた。
ライムはきょとんとした顔でカシスを見つめている。
「どしたの、カシス」
「どしたの、じゃない!おまえ学校サボって何やってんだよ…」
「お昼寝だけど?」
「おまえなぁ…」
カシスはやれやれとため息をつき、ライムの横に腰を下ろした。
「いいじゃん、明日から夏休みなんだからさ。校長先生の面白くないお話聞くためにわざわざ学校行くのもね〜」
「そういう問題か!?」
「そーゆー問題。どうせカシスだって話聞かずに寝てたんでしょ?」
「むむっ…」
「図星でしょ」
と、片目を閉じてみせた。
「わかってるじゃん」
そう言ってカシスも横になった。
会話が途切れ、ただ木の葉が風にそよぐ音だけが響く。
カシスはライムの横顔をじっと見つめた。
「…ライム」
両目を閉じているライムが起きているのかどうかを確かめるかのように呼び掛け
る。
「うん?」
ライムの返事を確認した次の瞬間、カシスは自分の唇をライムのそれに重ねていた。
「んっ…」
一瞬困惑した表情を見せたライムだが、そのままカシスに唇を任せた。
数秒、数十秒。
ようやくカシスが唇を離した。
「…もうっ」
軽く息をつき、ライムが不満そうに鼻をならした。
「いきなりはやめろっていつも言ってるじゃ…」
「だってさ」
ライムの言葉を遮る。
「だって…明日、行くんだろ?」
先程までの強気な口調が抜けている。
ライムはただ頷いて、視線を反らした
「じゃあ…今日で最後じゃん。ここでこんな風に話せるのって」
「それ大げさ。会えないのは夏の間だけだって。」
にゃは、と笑ってみせるが、カシスの顔は晴れない。
「じいさんには言ったのか?」
「ううん、言い出しにくくてさ。あ、大丈夫だよ!じーちゃん元気だし。ぼくがいなくてもさ…」
「じゃなくて、それじゃ家出じゃんかよ!」
「わかってるよ、じーちゃんには今夜、話す…」
頭を下げるライムに肩を寄せる。
「…育ての親より、産みの親、か?」
「……」
「そうまでして、自分を捨てた母親に会いたいか?この村を出て、母親さがして、仮に会えたとして、それでおまえは本当に満足なのか?」
黙り込むライムの頬を風がなでる。
「この村には、おまえのことを本気で大事に思ってる人がいるだろ?…考え直せよ。」
「ありがと、カシス。でも…」
よっ、とライムは上体を起こした。
「生きてるってわかった以上はどんな人でも会いたいよ。それに、それだけじゃなくってさ。なんか、もっといろんな場所の風、感じてみたいんだよね!」
にぱっと笑う。この朗らかな笑顔にはかなわない。
「風か…」
「この村の風、好きだよ。でも風はずっと同じ場所に吹いてるわけじゃないからさ。風を追いかけて、いろんな所に行って、そしてまたこの場所に戻ってきたいんだよね!」
「んー…」
「ちょっとカッコつけすぎたかな?」
「おれも…一緒に行ってやりたいよ。でもおれには…」
「この夏が大事、でしょ?」
カシスは黙って頷いた。
「家の診療所、継がなきゃだし。街のいい高校入るためには、今から…」
「わかってる。応援してるよ!」
陽が、徐々に傾き始めていた。
二人の顔が、オレンジに染まる。
「あ、そろそろ帰らなきゃかな…」
夕日を眺めつつ、ライムがぼんやりと口を開いた。
二人で眺める夕日も、当分見れなくなる。
「…そっか。」
「カシス」
「ん?」
「好きだよ!」
一瞬、二人の唇が交わり、また離れた。
いつもと変わらぬ、別れの挨拶。互いの想いの交差。
だが、二人を取り巻く風は、変わろうとしていた…
ライムは、この小さな村ランドビレッジに、祖父と二人で暮らしていた。
祖父と言っても、血のつながった祖父ではない。
なんでも、ライムは幼い頃に交通事故に巻き込まれ、両親を失ったらしい。そこで身寄りのなかったライムを、この村で一人で暮らしていたクロネコの老人・ザボンが引き取ったのだった。
ライムは、そう聞かされていた。
しかし…一週間前。
「ライムや、ちょっとワシの部屋の掃除、手伝ってくれんかの?」
「え〜、やだよ。めんどくさい」
「つべこべ言わずに手伝えぃ!」
ほうきでお尻をひっぱたかれ、ライムはいやいやザボンじぃの部屋の掃除をしていた。
手伝うも何も、ザボンじぃ本人は居間でテレビを見ながらお菓子をバリバリ食べてるだけだから気楽なものだ。
ザボンじぃの部屋は、趣味で集めたアンティークや古い本で埋め尽くされていた。
14歳のライムにはその価値は分かりかねる。
それにしても、よくここまで散らかるもんだと愚痴をこぼしながらライムは部屋の整理をしていた。
いくら血のつながりがないとはいえ、この人に似なくて良かった。
(ぼくの母さんや父さんは…どんな人だったのかな?)
ふとそんなことを思う。
事故があったのは10年以上前のことで、記憶は残っていない。唯一、ライムの右肩に残っている傷跡が、当時の事故の証だと…そう聞かされていた。
そんなことをぼんやりと考えながらライムが椅子の上に乗り、本棚の上の埃をはたいていた時だった。
「…んわぁっ!?」
考え事をしていたためか、ライムの体は不意にバランスを崩し、激しい音を立てて地面に転がった。
100キロを軽く越える巨体が落下した衝撃に、部屋が揺れ、本棚の本が次々にライムの上に降り注いだ。
「ぁぅ〜、イテテ…」
お尻をさすりながら本を払い除け、なんとか体を起こす。
「…ん?」
お腹の上に、一通の封筒が乗っかっているのに気付いた。
色褪せてはいるが、繊細な整った文字で「ザボン先生へ」と書かれている。
「じーちゃん、先生なんてやってたんだぁ。意外…」
ライムは興味本位に、封筒を開けて中の手紙を取り出した。
『先生、ご無沙汰しております。息子のライムは、三歳になりました。』
「これ、母さんの手紙…?」
手紙にはライムを紹介する、愛情に満ちたことばが記されていた。
母の顔は知らない。だけどとても優しい人だった…それはライムにも十分理解できた。
だが、手紙を読み進めるごとに、ライムの顔から血の気が引いていった。
『私にはもう、あの男からこの子と我が身を守ることができません。私はどうなっても構いません。けれど、この子が傷つくのはもう見たくないのです。この子に罪はありません。』
手紙に、かすかな血痕がついているのに気付いた。
『どうか、ライムをお願いします。
ミント・パンディ』
「なんだよコレ…だって母さんは事故で死んだって…この肩の傷だって…そんな…」
「見てしまったのか…」
先程の物音に気付いたザボンじぃは、部屋に入るなり愕然と立ち尽くした。
「じーちゃん…どういうことなんだよっ!?ぼくは…ぼくの母さんはぁっ!」
混乱してガクガクと体を震わせるライムを、ザボンじぃはただ抱き締めた。
瞳の焦点が合っていない。まだ幼い心には、あまりにも重すぎることだった。
「すまん…すまんかった…!」
「うっ…うわあぁぁぁぁあっ!!」
泣き叫ぶライムの心が壊れてしまわないよう、強く優しく抱き締める。
いつかはこうなる日が来るとわかっていた。だが、ザボンじぃの口から言い出すことはできなかった。
ライムの母は、父を殺した、と。
いつかその事実をライム自身が受けとめられるほど強く成長するまでは。
本の隙間に隠してあったその手紙が、ライム本人の手に渡ってしまったことの後悔の念に襲われる。
なぜこうなる可能性を少しでも考えられず、ライムに部屋の掃除を任せてしまったのか。
震え、赤子のように泣き続けるライム。
成長したとはいえ、14歳というのはまだ子どもに過ぎないのだ。
繊細なガラス玉のような心を護り抱くことだけが、その時ザボンじぃにできたことだった。
そして、今。
「ただいま…」
ライムの帰宅にザボンじぃは何も言わず、ソファに腰掛けていた。
「おかえりって、言ってくれないんだ?」
「言ってほしいのか?」
ザボンじぃの足元に、旅の用意を詰め込んだリュックが転がっている。
「…それは…」
「ワシに黙ってこんなもの準備しおって。親不孝もたいがいにせんか。」
「でも…」
「ライム」
椅子から立ち上がったザボンじぃは、ライムの前に歩み寄った。
ライムのがっしりとした太い腕を握り、ぽっこりとした腹を撫で、頭に手を伸ばそうとして…届かなかった。
「大きくなったな」
「じーちゃん…」
「ちっこい頃は泣かされてばかりだった小僧が…強くなった。本当に」
「明日の朝、行くよ」
ザボンじぃは背を向け、窓を開けた。
蒸し暑かった室内に心地よい風が吹き込んでくる。
「いい結果になるとは限らんぞ?ワシですら、おまえの母の行方は知らん」
「でも、行きたいから」
ザボンじぃは向き直り、ニカッと笑ってみせた。
「簡単に諦めて戻ってきたら、承知せんからな」
「…うん!」
「若いうちにできることはなんでもやっとくといいさ。」
「じーちゃん…ありがとう!」
ザボンじぃは何も言わず、再びライムを抱き締めた。
ライムに、ザボンじぃの体が小刻みに震えているのが伝わってくる。
「えへへ…どこに行っても、ぼくのじーちゃんはじーちゃんだけだかんね!」
「当たり前じゃ…!」
夜風は、静かに吹き抜けた。