たぬきのしっぽ4
『部長の母上』


「あら、いらっしゃい!」

駅前の小さなラーメン屋に入ると、一人で店を切り盛りしているイヌ族のおばちゃんが愛想よく笑顔を見せた。

「ども、こんちわ〜」

制服姿の部長はカウンター席に腰を降ろした。
心なしか疲れたような印象を受ける。
ちらりと周りに目を配ると、カウンターには会社帰りのサラリーマンが一人いるだけ。
二階にテーブル席が二つほどあるのだが、恐らく部活帰りと思われる高校生の集団の笑い声が聞こえてくる。

小さな店だが味はかなりのもので、知る人ぞ知る隠れた名店である。

「信楽くん、一人なんて珍しいねぇ。演劇部帰り?」

そう聞きながらおしぼりを部長に手渡した。
豪放な性格だが非常に記憶力がいい女性で、ほとんどのお客さんの顔や近況を覚えている。
タヌキ族の息子が都会で働いていて、部長を見るとイメージがダブって見えるのだろう。
実の息子のように親しく話しかけてくれる。
部長の「現在の」母親よりもずっと親しい関係かもしれない。

「いや、今日は部活サボっちゃってさ…」

てへへ、と気の抜けた笑顔を見せる。

「あらまぁ」

「あ、んっと、味噌ラーメン」

「チャーシュー大盛りね?あいあい」

おばちゃんは手早くラーメンの調理にかかった。

「で?何かあったの?」

「え?」

「珍しいじゃない。天下の信楽部長がさ、部活サボってラーメンなんて」

「別に部活がイヤだったんじゃないかんね!」

「ふーん」

スープを小皿に取って味見しつつ、部長に目を向けた。

「話したいこととかあるのかい?」

「いや、別にそんなつもりじゃ…」

そう言いながら、部長はモジモジと拳を揉んでいた。

「ふふ」

おばちゃんは丼にラーメンを盛り付け、大切りのチャーシューを乗せると部長の目の前においた。

「はいおまちっ」

「あんがと!いただきま〜…」

「で、最近どうなんだい?ミナちゃんとは?」

「ぶっ!!」

ラーメンを口に入れる前で良かった。火傷してしまうところだった。

「ななな何で!?」

「別に?最近あの娘の話しないな〜って思ってね」

「うぅ…鋭すぎるよぉ」

「あんたが鈍いだけでしょーが?」

ケラケラと楽しそうに笑う。

「何、フラれたのかぃ?」

「そういうわけじゃないんだけどー」

「ふむ」

「実は、その、付き合い始めたヤツがいてさ」

「あんたが?」

「うん」

「ほ〜ぅ」

「何て言うかなぁ…今、すんごい幸せなんだよね!」

「いいことじゃないの」

「でも、ほら…ミナちゃんのことがさ、」

「ふむ…引っ掛かってんだ?」

部長はコクンと頷いた。

「…ラーメン伸びちゃうよ?」

「あ、うん」

慌ててラーメンに口を付ける。

「…まぁでも、わかるなぁ」

「?」

ズルズルとラーメンを口に運びながら、おばちゃんに顔を向けた。

「ミナちゃんが初恋だっけ?」

「…うん」

「なんかね、恋に恋してるって感じじゃなかった?」

「ん〜…?」

「その人のことが好きなんだけどさ、結構ヤケクソ気味になってるっていうか。自分の理想を無理に相手に合わせてたとか、そういうのじゃない?」

「ん〜、微妙」

「別に告白も何もしてないんでしょ?」

「うん…」

「じゃあ、変に意識しなくても大丈夫だよ。いま大事にしたいことを大事にしてなさい。」

カウンターの端に座っていたサラリーマンが会計を求め、それに応対しつつも部長に言葉をかけた。

「そういう悩みはさ、時間が解決してくれるもんだし」

「それでいいのかなぁ?」

「あんたはさ、割り切った考えとか苦手な子でしょ。」

「数学は苦手だよぉ〜」

「そこでボケなくていいの。ただね、それがあんたの良いところだなぁ、とは思うわけよ」

「数学苦手なのが?」

「まぁさ、アンタがそうやってミナちゃん気になっちゃうのはね、今まで自分が追い掛けてたものを手放しちゃうことに抵抗があるからだと思うんだ」

部長は頭の中を巡らせるも、解るような解らないような微妙な感覚だった。

「でもね」

おばちゃんは、その大きな手の平を部長の頭の上にポンと置いた。

「人を好きになるってことはね?宝物を増やすことだと思うんだよねぇ・・・」

「宝物…」

「宝物はさ、いくつあってもいいもんだよ。ていうか、嫌いな人が大勢いるよりもさ、たくさんの人を好きでいられる方がいいじゃない?」

「ん…」

「嫌いになることとか、スッパリと縁を切ることは簡単だよ。でもアンタは、それができないっていうかね?だけど、宝物をずっと宝物にできる子なんじゃないかなって思うのよ」

さすがにそこまで言われると気恥ずかしい。
が、少しずつ霧が晴れていく感じがした。

「そりゃあ自分の手を離れちゃう宝物もあるよ?だけど、そういうものも含めて、大事にし続けられるのって、いいなぁって思うね、アタシは」

食器を丁寧に拭きながら、優しく言葉を贈った。

「アンタを好きになる人はさ、ちゃんとそういうところを見て好きになってんだから。だから胸を張っていいんだよ」

「おばちゃ〜ん…」

思わず嬉し涙が溢れていた。
自分の駄目なところを指摘し、「変われ」と言う人もいる。
そう言われて、なんとか変わろうと頑張っても、結局大して変われないのが部長だった。
そういう自分でいいのかと悩んでいた。

あの夜カオルは打ち明けてくれた。

「おれがおまえのことを好きでも、おまえがミナに恋してるなら、おれはそれを応援したい。」

けどそれは、本当にカオルの本心なのか不安だった。
誰だって、好きな人の心の中に別の相手がいたら不安だろうと思う。
部長としてもミナへの気持ちはケジメを付ける必要があると思っていた。
だけどそれは、無理に自分を変えてまでするものではないと。

「おばちゃん、母上みたいだよぉ…」

カウンター越しのおばちゃんに、もっと撫でてと言わんばかりに頭を延ばす。

「コラコラ、この子は高三にもなって」

おばちゃんとしても、遠くにいる息子が帰って来たように思えるのだろう。
嬉しそうに目を細めてみせた。

「…お母さんとはどうなのさ」

「あの人とは…まぁ仲良くやってるよ〜」

「そっか」

「お互いに気を遣ってるのは変わらないんだけどね…」

ラーメンのスープを飲み干した。

「あの人と結婚した父上だって別に恨んじゃいないよ。それは…おいらだって寂しいのは一緒だもん。起こっちまった事故は仕方ないし…だからおいらも、いつかあの人を母上って呼べるようにならなきゃだし、そうなりたいよ」

「…信楽くん」

肩に力が入り過ぎているようにも見えた。

「けどさ」

部長は、周囲に慎重に目を配った。
人が入ってくる気配もないし、上で騒いでいる高校生が降りてくる気配もない。

「おばちゃんさ、一度だけでいいから…母上って呼んじゃダメ…?」

「…しょうがないね、この子は」

おばちゃんはエプロンを外すと、部長の隣の席に回り込んだ。

「気を張らなくたっていいんだよ。」

部長の丸っこい背中をスッとさすった。
暖かい、優しい手だ。

「は…母上ぇ…」

部長の記憶の中の母は、四年前にこの世を去っていた。
母親にベタベタと甘える高校生は珍しいだろうと思う。
だが、「甘えない」ことと「甘えられない」ことはやはり違うのだ。
母がこの世を去り、世間は「大人になる」ことを強要した。
だがそうする程に部長自身の反動は大きく、逆に家の外では子供でいようとする気持ちが強調されてしまっていた。
誰かに、そうした気持ちを受け止めてほしかった。

「たぬきの子はね、力んで生きちゃダメだよ?楽にしてていいんだから」

「…ありがと、母上」

部長は四年分の気持ちを、一言に込めて吐き出していた…

目の前にいるこの女性にいくら理想の母親の姿を求めても、結局は本当の母親にはならない。
記憶にのみ残る母はもういない。それが現実だ。
大人になるということは、そういう現実の中に身を置くことなのだろう。
誰にも甘えず、自分の力で生きていかなければいけない時も来るのだろう。
そうなった時に、何が自分を支え、動かす力となるのだろう?
現実に負けないために、自分が自分であるために必要なもの。
自分はもう、それを持っているはずだ。
あとは、大人になることを恐れない強さだけ。

「がんばりなよ!」

母上が、言った。