第一話
「やって来ました楽運荘!」
今から7年前の夏休みのことだ。
深緑の木々が生い茂る森の中で、鼓と一人の少女が遊んでいた時の出来事だった。
「ほら、つづみ!全然怖くないから、早くこっちおいでよ!」
ネコ族の少女の声が急かす。
「で、でも……」
10歳の鼓は、森の間を流れる川に架けられた、丸太でできた短い橋を前に立ち尽くしていた。
丸太は大人でも渡れるほど太くしっかりした物で、仮に足を滑らせたとしても下を流れる川はせいぜい鼓の膝の上ぐらいの深さしかない。
だが、いくら安全だとわかっていても、一度すくんでしまった足は橋を渡ろうとはしない。
鼓は目の前に架かった橋と、その向こうで待つ少女の顔を交互に見回す。
「もう!早く来ないと置いてっちゃうよ!」
幼くも勝ち気な顔で、ネコ族の少女がまくし立てる。
「うっ……」
鼓の目に、大粒の涙が溢れ出す。
「……うあぁぁぁぁんっ!!」
「……はぁ……」
火がついたように泣き出す鼓に、少女はうんざりしたように首を傾げた。
「置いてかないで、ミナちゃあぁん!」
「つづみの方が、おにーちゃんなのに……」
ミナはぶつくさと呟きながら、丸太橋の中程まで渡って鼓に手を差しのべた。
「さ、つかまって」
「う……うぅ……」
恐る恐る、鼓は四つん這いになって橋を渡り始める。
が、失敗だった。
かえって川を直視してしまう分、普通に立って歩くよりも遥かに恐ろしい。
「ひっ……!」
軽い目眩に襲われた鼓の右手が、橋から外れた。
ふらり。
「わっ……」
「ちょっ、つづみ!」
バランスを崩して傾く鼓に、ミナが慌てて手を伸ばそうとして、
ぐらっ。
「きゃあっ!!」
足が滑った。
バシャアアァァン!!
激しい水しぶきが上がる。
川底に尻餅をついた鼓に覆い被さるように、ミナがのしかかっていた。
「いてて……ミナちゃん、大丈夫っすか?」
「大丈夫じゃないよ。つづみのせいでずぶ濡れ!」
ミナは水から上がり、腰を抜かした鼓の手を取って引っ張り上げた。
「おばあちゃんに怒られちゃったら、つづみのせいなんだから!」
「ご、ごめんなさいっす〜……」
少女の名前は猫柳美奈。
楽運荘の女将、猫柳マサ子の孫だった。
「ミナちゃんが来るんすか!」
ロビーの床を箒で掃く手を休め、鼓が嬉しそうに目を輝かせた。
「えぇ。なんでも部活の合宿でね、来週から夏休みで、ここに泊まりたいんだって」
フロントに生花を飾りながら女将が答える。
「確か、演劇部っすよね?相変わらず女優志望なんすか?」
「そうみたいねぇ。」
「おいらが会うのは三年ぶりっす♪楽しみっす〜」
鼓がコロコロと楽しげに笑っていると、庭の掃き掃除から戻ってきた健介が首を傾げた。
「何だ?楽しそうに」
「幼馴染みの女の子が遊びに来るんすよ〜!」
「な、何いぃぃぃぃっ!!?」
健介の脳天に、稲妻が走ったような衝撃が走った。
持っていた箒を叩きつけるように放り出すと、鬼のような形相で鼓に迫る。
「どこのどいつだその女は!?家はどこだっ、遊びに来るってどこまでの付き合いだっ、忌々しい!!」
「あ、あの、健兄ぃ……」
ガクガクと激しく肩を揺すられ、下手に喋ると舌を噛みそうだ。
「えぇい面倒だ、今すぐ会わせろ!俺が直接話をつけてやる!!」
「だ、だから〜!」
鼓は健介に振り回されつつも、震える手で女将を指差した。
「女将さんがなん……だ……!?」
「……その忌々しい女とやらは、私の孫です」
優しい笑顔で、女将は生花の余分な花を一輪、バチンとハサミで切り落とした。
床に落ちた青い花が、バラバラに割れた。
「……へ……」
健介の青い毛並みが、一層青ざめたように見えたのは気のせいではない。
「健介、夏のボーナスいらないのね。助かるわぁ……」
「えっ、そんな、ウソ!?ごめんなさいっ!!」
「何と勘違いしたんすか、健兄ぃ……」
「いや、だってほら、幼馴染みの女の子なんて当然そういうものかと……」
仔犬のように怯える健介に、鼓はいたずらっぽくからかってみせた。
「ん〜、そりゃぁ、濡れ場の一つぐらいはあったっすけどねぇ」
「ぬ、濡れ!!?」
ずでーんっ。
余りにも衝撃が強すぎたらしく、今度は完全に目を回して倒れてしまった。
「あちゃぁ」
「自業自得よ」
パチンパチンと、生花の枝を切る音だけが淡々と響いた。
六人がバスから降りると、緑の木々と広大な畑に囲まれた小さな町並みが視界に飛び込んできた。
町と言っても民家らしい民家は数十メートル置きに点在しているだけで、町というよりは農村と言ったほうがしっくりくる。
一つだけ目に入った雑貨屋らしき商店は何十年も前から営業しているようで、何度も補修をした跡がある。
町というよりは、村に近い。
「ほぇ〜!」
物珍しそうに、部長がキョロキョロと辺りを見回す。
コンビニもなければ、自販機の一つもない。
彼らの暮らす青草の町も田舎だとは思っていたが、本当の田舎には本当に何もないのだということを知った。
「すっごいなぁ」
目の前に広がるとうもろこし畑に、コウが目を輝かせる。
元々が都会育ちのコウにとっては何もかもが目新しいようで、生い茂る草木に止まる虫にさえ感動している。
リュウは草の上の青虫をまじまじと見つめるコウを見て、よくあんな気味の悪いものを凝視できるなと顔を背ける。
「ほらリュウ〜!青虫がこんなに!」
「あぁ、見せないでいい、そんなもん!」
わざわざ捕まえて持ってくるのだからたまらない。
「リュウ先輩、虫がダメなんですかぁ」
「虫は無視っ」
からかうアキホの声に、ありきたりな駄洒落で返す。
「やめろ。冷害で畑が枯れる」
背を向けたままカオルに窘められ、リュウは渋い顔で石ころを蹴飛ばした。
あぜ道を転がった石が、地図を片手に道を確かめるミナの足下で止まる。
「えっと。ここから歩いて二十分くらいかな」
三年ぶりに来た場所だ。
おばあちゃんは元気にしているだろうか。
泣き虫で、年上のくせに自分に甘えっぱなしだった鼓は、どうしているだろう。
高鳴る胸を抑え、ミナは五人を案内して歩き出した。
「歓迎 青草高校演劇部御一行様」
玄関の黒板にその文字を書き入れているのは、楽運荘従業員のチーフを務めているトラ族の大河早苗だ。
文字を書き終えた彼女は、黒板を玄関口横に立て掛けて、額に滲んだ汗を拭う。
「早苗姐さん〜」
露天風呂の清掃を終えた鼓が、入り口の早苗を見つけて声をかけた。
ピクリ、とシマシマ模様の尻尾の先が立つ。
「鼓、今『姐さん』って呼んだね?姉さんじゃなく」
「うっ……」
早苗の虎のような恐ろしい顔にギクリと身をすくませる。実際トラなのだが。
鼓としてはどちらも同じ『ねえさん』なのだから、別に気にする必要はないと思うのだが、何故か早苗はこの微妙なイントネーションの違いを聞き取る力に長けていた。
だって従業員チーフというか、ヤクザの奥さんみたいな雰囲気だし。何だか取って食われそうだし、恐ろしい。
と、前に健介が言っていた。
「こら鼓……」
「え?」
「がおぉーっ!」
「ひいぃっ!」
突然野獣のように飛びかかる仕草をされ、鼓は思わず尻餅をついた。
「今度、姐さん呼ばわりしたら本当に食べちゃうよ♪」
ペロリと唇を舐める。
「シャレになんないっすよ〜!」
まぁいっか、と早苗が笑い、立て掛けた黒板を指差す。
「女将さんのお孫さん、青草高校行ってたとはねぇ」
「知ってるんすか?」
「アタシの母校だもん」
「まじっすか」
うん、と頷いてカラッとした笑顔を浮かべる。
「アタシがいたのは、もう二十年近く前だけどねぇ」
「二十年……」
早苗の何気ない一言に、鼓は反射的に頭を巡らせようとして、
「女の子の歳を探るなっ!」
「でっ!」
べしっと頭を叩かれた。何たる洞察力の鋭さ。
とりあえず女の子という年齢ではないことは探らなくても確実にわかっている。
「何やってんですか、姐さん……」
健介が入り口からひょっこりと顔を出す。
すかさず、早苗の拳が頭上に上がる。
「アンタだね!?鼓に変な呼び方教えたのはっ!」
「ひっ!?」
「そうなんすよ、健兄ぃったら早苗姐さんは恐ろしいだの何だの散々……」
「アタシのどこが恐ろしいってんだい!」
ボキリと拳を鳴らす。
「だって恐ろしいじゃないですかー!!」
言ってから、しまったと口を塞ぐ。
手遅れだった。
目の前に近づいてきた早苗は、寒気がするほど優しい笑顔を浮かべていた。
「このワンコにはちょいとしつけが必要だねぇ」
恨むぞ、鼓。
健介は歯を食いしばった。
夏の日差しはじりじりと照りつけていたが、心地よく吹く風のおかげでそれほど暑くは感じなかった。
楽運荘に至る道を曲がると、それは静かな森の中に作られており、太陽の光と熱を程よく遮ってくれる。
コウがふと見上げると、見たことのない大きな鳥が飛んでいる。
キジだ、とカオルが呟く。
「着いたよ」
ミナの声に視線を戻すと、楽運荘の看板が目に入った。
「おぉー!ここが……」
部長が子供っぽくはしゃぎながら、他の部員たちに先んじて門をくぐる。
「げふっ!」
青い毛皮のイヌ族の青年が、短い悲鳴を上げて目の前を右から左へと吹っ飛んでいった。
「……は?」
視線を右側に向ける。
「あ、いらっしゃいませー!」
部長に気づいたトラ族の女性が頭を下げ、その横にいたタヌキ族の少年が深々とお辞儀をする。
「……」
再び、左手に転がっているイヌ族の青年を見る。
ぐったりとして動かないが、三人とも着ている緑の服からここの従業員だとわかる。
どういう状況かわからず立ち尽くす部長を、ミナが背中から思い切り突き飛ばした。
「つづみ〜!!」
ミナに気づくや否や、タヌキの少年が満面の笑顔で駆け寄ってくる。
「ミナちゃん、お久しぶりっす〜♪」
……っす?
その特徴的な語尾に、部長はピンときて少年の顔を覗き込む。
「ん?」
少年と目が合う。
見覚えが―ある。
「あーっ!あの時の!!」
二人のタヌキが、口を揃えて叫んだ。