番外編『ダイゴ』
私立夕凪中学 二年四組
教室には男子生徒のみ。真面目に授業を聞いているウマ族の少年もいれば、後ろの席の生徒とペチャクチャと話しているネコ族の少年もいる。
どちらかといえば不真面目な生徒のほうが多いかもしれないクラスだ。
世間では割と名の知れた私立の男子校なので、それなりに偏差値は高いはずではあるのだが…
「ぐおぉぉぉ…」
その教室に、六時間目の授業が始まった時から大きないびきが響いていた。
いつものことだ。生徒も教師も、気にすることなく授業を続けている。
大きないびきの主は、クマ族にしてはやや小柄な、しかしがっしりとした体格の少年。
だらしなく着込んだ学ランの前を開け、ランニングの下からのぞかせた大きなお腹を時おりさすっている。
正直言って彼のいびきはうるさくて大迷惑なのだが、誰も起こそうとしないのは皆、そう簡単に彼を眠りから覚ますことはできないと知っているからである。
「…え〜、ちゅうわけで、長いこと続いた種族別抗争が終わって、今のうちらの生きる社会が…」
キーンコーンカーンコーーン!
社会科の老教師の言葉を遮ってチャイムが鳴った。
「あー、こんな時間か。ほな次回は十九世紀初頭、タヌキ族とキツネ族の受けた迫害について。予習しとくように…」
教師が言い終わらぬ内に、こりゃまた大きな声が響いた。
「ぃよ〜っし!終わったー!!」
さっきまで大いびきをかいていたクマの少年がパッと飛び起きた。すでにカバンを抱えて教室を出る準備をしている。
凄まじい寝起きの良さに、教師はため息をついた。
「……大熊くん。なんで君は毎度毎度…」
「あれ、まだ終わってなかったですかー」
「いやはや、元気なんはええんやけどさ、もうちょっとその気力を勉強にも向けてくれへんかな…」
「だはは、すんませんー。腹減るとアタマ働かなくて〜」
お腹をポンと叩いて朗らかに笑う。
「まぁえぇわ。ほな、今日はここまで…」
起立、礼の後、諦めたように教師は去っていった。
大熊 大悟
それが少年の名前だった。
彼はカバンを肩に背負うと、友人への挨拶もそこそこに元気良く教室を飛び出した。
14歳、有り余る気力と体力の持ち主だった。
「…うぁっ!!」
淡い金色の毛並みを持つ、ふっくらとしたゴールデンレトリバーの少年が壁に叩きつけられた。
放課後、体育館の裏。各運動部の部室が立ち並ぶ側での出来事だった。
トラ族の三年生の生徒は少年の肩をつかむと、耳元で囁いた。
「金、持ってんだろ?これ以上痛い思いしたくなかったら渡せよ…」
「ヤだぁ…」
顔を背ける。震える手で、ポケットの中の財布をぎゅっと握り締めた。
「…反抗的だな」
トラ族の生徒はポケットから光るものを取出した。
「…!」
鋭い光を放つナイフを少年の胸元につきつける。
「な?財布渡せばいいんだよ。さもないと…」
学ランの胸を持ち上げ、素早くナイフを走らせた。
「ひっ…!」
学ランの腹の辺りが真直ぐに裂け、お腹の黄色い毛がむき出しになる。
「次はそのおっきなお腹が切れるかもよ?」
「うぅ…!」
少年はなおも首を横に振った。
「強情だな。」
首筋にナイフを近付けた。
恐怖に少年の顔が歪む。
「ほーんと、強情だと思うよー」
場違いな、のほほんとした声に思わずトラ族の生徒は立ち上がった。
「誰だ!」
「でぃっ!!」
振り向いた瞬間、トラ族の生徒の腹に強烈な痛みが走った。
「がっ…!」
腰を落としたクマ族の少年の拳が真直ぐに腹に食い込んでいる。
「ぁぅぅ…っ…」
情けない呻き声と共にトラ族の生徒は意識を失った。
「ふ〜、やれやれー」
ぷらぷらと手をほぐすと、震えながらうずくまっているゴールデンレトリバーの少年に目を向けた。
「ケガ、ないかー…?」
しゃがみ込んで、切られた学ランに手をかける。
「派手にやられたなー。あーいう時はとりあえず財布渡しちゃうのも手だぞー?」
「…誕生日…」
「んぉ?」
「母さんの…誕生日だったの…」
「ん…」
瞳を潤ませる少年のお腹をすっと撫でた。
「だから金、渡せなかったかー…プレゼント買わなきゃだもんなー」
少年はこくりと頷いた。
「でもな…」
語調を強め、少年の肩を押さえた。
思わず少年の身がすくんだ。
「もしおまえが今刺されでもしたら、悲しむのはおまえの母ちゃんだろ…?」
「は、はい…」
「親孝行することよりも、まず心配かけないようにしたほうがいい。それが一番の親孝行ってもんだ…」
「はい…」
父さん…?
一瞬、彼の眼差しに父親を感じた気がした。
「あの…」
「んー?」
「ありがとうございました!」
「いえいえー…ていうかー」
「?」
「見覚えあるぞ、おまえ。二年だろー?」
「えっと、一組の金森幸太です…」
「ならタメ口で話せよー、気持ち悪いなー!」
「えっ、あっ、はい!」
「幸太じゃ長いから、コウでいいかー」
「一文字しか短くなってない…」
「じゃあ、コ」
「それはヤだ!」
「たははー!オレは大熊大悟。大って字が二つも入ってる割に小さいんだけどなー」
言われてみれば、確かに背丈はコウより一回り大きい程度だ。
それなのに彼はコウよりずっと年上に見える。
「大熊、くんですか」
「ん〜…」
じーっと、不満がありそうな目でコウを見つめた。
「あうっ…」
あまり人と親しくしたことのないコウにとって、こういう流れは苦手だった。
初対面の相手に敬語を使ってしまうのもデフォルトである。
いくら同年代でも、助けてもらった相手にいきなりタメ口を使うのは気が引けた。
「だ・い・ご!」
「だい…」
言いかけて、コウが目を見開いた。
「ダイゴ、うしろ!!」
「!」
ダイゴの頭上に、銀色の刄が閃いた。
「オラァァッ!」
いつの間に意識を取り戻したのか、トラ族の生徒はダイゴの背後から今まさにナイフを振り下ろそうとしていた。
「ぐぁぁっ!!」
コウが思わず目を背けた。
だが響いた悲鳴は、ダイゴではなく、トラ族の生徒のものだった。
コウが恐る恐る目を開くと、トラの脇腹にダイゴの蹴りが深く食い込んでいた。
衝撃にガクガクと足が震え、一瞬の後に仰向けに倒れ伏した。
「ケンカ売ってるつもりなら買うけどー…小さいからってナメない方がいいよー?」
決して脅しではない。ダイゴにはその気になればこんなチンピラ、簡単にねじ伏せることができる自信がある。
のほほんとした口調ではあったが、その眼光は相手を恐怖させるに十分なものだった。
「ひっ…」
「二度とこのワン公にたかるんじゃねーよ!」
と、拳を鳴らしてみせた。トラの顔が恐怖に引きつる。
「ご、ごめんなさい〜!!」
先程まであれだけ大きな態度で出ていたトラ族の少年だったが、脇腹を押さえてよろよろと背を向けた。
「…ふん!」
追い打ちをかけるように、ダイゴが尻を蹴っ飛ばした。
「ひゃぃっ!!」
「さっさと帰れっちゅーの!」
「あ、あひぃぃぃ…!」
満身創痍で、情けない悲鳴をあげて逃げ去っていった。
ダイゴは落ちていたナイフを拾うと、胡散臭そうに見つめた。
「こんなもん持ったぐらいで強くなったつもりかねぇ〜」
「あの…」
恐る恐る、コウが歩み寄ってきた。
「んー?」
「ダイゴ、強い!」
なぜかドキドキが止まらない。
コウの顔は火照ったように熱くなっていた。
「んまぁ、空手やってるからなぁ」
目を輝かせるコウに、ガッツポーズで答えてみせた。
「空手部?」
「そそ。部室に着替えにきたんだけどさー」
そこでバッタリ、コウがからまれている現場に遭遇したわけだ。
ダイゴは空手部の部室の鍵を開けると、おもむろに学ランの上着を脱いでコウに手渡した。
「え?」
「それ、ちょっと汚いけど、着てていいよー。おれは道着があるからー」
「えっ、でも…」
言いかけたコウだったが、お腹の辺りがスースーすることに気付いた。
「うっ…」
確かに、腹部が裂けた学ランで帰宅するのは辛いものがあるし、母にも余計な心配をかけてしまうだろう。
「早く帰って、母ちゃんにプレゼント渡してやんな。」
袖なしの道着に着替えたダイゴは優しくコウの肩を叩いた。
「ありがとう…」
「んじゃ、またなー!」
ダイゴは軽く手を振ると、体育館に駆けていった。
コウはその後ろ姿を見送ると、ペタンとその場に腰を下ろした。
着ている学ランを脱ぎ、ダイゴの学ランに袖を通した。
背丈も胴回りも丁度同じぐらいだったので、さほど違和感なく着こなすことができた。
ふとダイゴのがっしりとした体格が頭をよぎった。
同じような体型でも、ダイゴの身体の太さはほぼ鍛え上げた筋肉によるものだろう。
「かっこいいなぁ…」
しっぽを二、三度パタッと振った後、両手に持った自分の学ランを見つめた。
すでにボロボロになっている。
「母さんが見たら、心配するよね…」
こうなったのも、自分に力がなかったからだ。自分の弱さのせいだ。
そう考えると、堪えていた涙が溢れてきた。
「強く、なりたいよぉ…」
ぐっと拳を握り締めた。その上に、何度も涙がこぼれ落ちた。
ダイゴのような強さが欲しかった。